1977年 5月13日

ドナ・サマーの功績、EDM の視点から見たクィーン・オブ・ディスコ

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ドナ・サマー、ダンスミュージックに生涯を捧げたディスコの女王


70年代の終わりからダンスミュージックシーンをリードし、ディスコの女王と云われたドナ・サマーが亡くなったのは、8年ほど前。2012年の5月17日のことだ。享年63。早すぎる死を惜しむファンも多いことだろう。

肺がんを患っていたというから辛い闘病生活もあったに違いないが、新しいアルバムの計画も進んでいたとのこと。彼女はセレモニーに呼ばれるだけの歌手ではなく、意欲的に活動する現役のアーティストであった。当時のバラク・オバマ大統領も「Donna truly was“Queen of Disco”(ドナは真のディスコの女王であった)」とのコメントを寄せ、彼女の死を悼んだ。

彼女の全盛期といえるのは、シングルで初の全米1位に輝いた「マッカーサー・パーク」をリリースした1978年から、MVも印象的な「情熱物語(She Works Hard for Money)」をリリースする1983年あたりだろう。その後はメインストリームを離れ、ダンスミュージックに傾倒し続けた彼女の音楽を、以前ほど僕も追わなくなり、次第に耳にすることも少なくなってしまったが、ダンス・クラブチャートでは2000年代以降もの長い間チャート上位の常連であった。「ホット・スタッフ」や「オン・ザ・レイディオ」などの名曲は幾度かリメイクされる度にダンスフロアに鳴り響き続けた。彼女は生涯 “ディスコの女王” を貫いたのである。

ドイツから始まったキャリア、ミュージカル「ヘアー」のツアーメンバーに


僕らの世代が洋楽を聴き始めた頃と、彼女の全盛期は重なっているのだが、それはまさに映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の大ヒットによって、空前のディスコブームが到来した時期でもある。ビージーズやアース・ウィンド・アンド・ファイアー(EW&F)と並んでブームを牽引したのが、彼女、ドナ・サマーというわけだ。

だが当然まだそんな場所に出入りできる年齢でもなく、当時のフロアの熱気をリアルに感じていたわけではない。あくまで流行の音楽の一つとしてどことなく遠くに感じていたから、彼女にキャリアについて僕らが見落としているものは少なくないと思う。

米国のアーティストであるドナ・サマーのソロとしてのキャリアは、実はドイツから始まっている。1960年代後半に大ヒットしたブロードウェイ・ミュージカル『ヘアー』で、ドナはツアーメンバーの一員としてドイツに渡っている。

ヒッピームーヴメントに沸く当時の若者たちの姿を描き、世界中で話題となっていたこの作品のオーディションで、彼女は本国での公演のキャストを勝ち取ることができなかったのだ。滞在中、彼女がまだ20代の頃に最初の結婚をしているが、その時の夫の姓が “Sommer”。ドナ・サマーの名は、母国デビューが決まった際に、それを英語の読み方に直して使用されたものだが、彼女が早く成功を収めたことで、離婚後も終生その名を通すことになった。

ジョルジオ・モロダーとの出会い、異彩を放った「アイ・フィール・ラヴ」


彼女にはドイツで、運命を左右するもう大きな出会いがあった。ミュンヘンを拠点に活躍していたイタリア人作曲家でプロデューサーのジョルジオ・モロダーとのアルバム制作である。彼のアシスタントを務めたピート・ベロットとのトリオはその後9枚のアルバムをリリースし、大きな成功を手にしていく。モロダーは後に『フラッシュ・ダンス』や『トップガン』などの大ヒット映画のサントラを手掛けたことでも知られるが、アーティストがその作風にシンセサイザー音楽を取り入れると「その陰にモロダーあり」といわれるほどのテクノポップの先駆者でもあった。

それまでドナが唄っていた楽曲といえば、彼の地でモータウンサウンドを再現したような作品が多く、差し詰めダイアナ・ロスのドイツ版といった風情を感じさせるものだったが、モロダーが手掛けた後は、最先端のテクノ・ダンスナンバーを含むアルバムとして、大いに注目を集めた。

1977年のアルバム『アイ・リメンバー・イエスタデイ』には、ひときわ異彩を放つ楽曲「アイ・フィール・ラヴ」が収録されている。この曲ではハイピッチで展開されるシンセサイザーとシーケンサーによる伴奏に合わせ、ドナが「♪ I Feel Love~」というフレーズをコーラスのように唄うだけなのだが、ステージではそれが繰り返される度に観客のボルテージがヒートアップしていくという圧巻のパフォーマンスが展開されるのだ。

ブライアン・イーノはこの楽曲を聴いて「今後15年のクラブミュージックのサウンドを変えることになるだろう」とコメントを残しているが、結果それは15年どころではなく、今日に至るまでEDM(エレクトリック・ダンス・ミュージック)の原点とまでいわれている。

ドナの快進撃とEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)の興隆


こうして迎えた彼女の全盛期の「ホット・スタッフ」や「バッド・ガールズ」といったヒット曲は、ダンスミュージックの体を成しながらもギターサウンドを取り入れロック色が強いアレンジになっているのが特長だ。

アルバムの収録曲の中には、今聴けば「アイ・フィール・ラヴ」のようなEDM的な実験が試みられた楽曲を見つけることができる。アルバム『華麗なる誘惑(Bad Girls)』の中にある「アワ・ラヴ」などはその典型例だが、当時の洋楽ビギナーであった僕らにとって、それはまだ “ピコピコした何か” でしかなかった。

日本では YMO が登場するまで “テクノポップ” なる概念は身近なものではなかった。機械で奏でる音楽といえば、スペースインベーダーの中にしかなかったから、正直それに気を留めることなどほとんどなかったといえる。クラブ / ダンスチャートで、いくら注目を集めたとしても、常に HOT100 の上位まであがれるとは限らない。

1979年のアルバム『オン・ザ・レイディオ』や、翌年の『ワンダラー』あたりでは、メインストリームの色がより強調され、大物ゲストミュージシャンを招いたり、バーブラ・ストライサンドとのデュエット「ノー・モア・ティアーズ」も大ヒットとなった。

もう一つ、この頃の彼女の代表曲に見られた特長として、スローバラードのように始まり1コーラス歌い終えたかと思うと、急にテンポが上がりラウドな音楽に変わっていく… たとえば「マッカーサー・パーク」や「オン・ザ・レイディオ」、「ノー・モア・ティアーズ」などがそれに当たる。僕らはそれを勝手に “ドナ・サマー・パターン” と呼んで揶揄していた。

だがこれも今になって考えてみれば、過去のバラード調の有名曲をメロディはそのままに “機械” の力を借りてテンポを上げてビートを利かせ、EDMに仕立て上げるのは、まさに“Hi-NRG(ハイ・エナジー)”系の常套手段ではないだろうか。1983年のヒット「情熱物語」は、まさにそのHi-NRG系の特徴が現れた作品とも云われている。

彼女がたとえディスコの女王としてのカルト的な人気から離れたとしても、こうした試みの伏線は、常に張り巡らされていたのではないか・・・というのは、少々思い過ごしだろうか

女王の帰還、ストック・エイトキン・ウォーターマンとのユーロビート


海外では一足先にディスコブームが終焉を迎え、日本国内においてはバブル時代も終盤に差し掛かる頃。風営法の絡みもあって、ダンスミュージックの主戦場は派手な大規模ディスコから夜通し遊べる “クラブ” に移っていった。

そうなるとDJの裁量が大きくなり、リメイクやアレンジに着目する傾向が強まる。その手段として使われたのが、それまで僕らが “機械” とか “ピコピコ” と呼んで片付けていた “デジタル” の力だ。そこで躍進してきたのが、イギリスやイタリアを中心に発信されてきた “ユーロビート” の音楽だった。

ドナ・サマーが当時最強のヒットファクトリー、英国PWLレーベルのストック・エイトキン・ウォーターマン(SAW)と手を組んだというと、意地悪な見方をすれば、ピークを過ぎたかつての女王が勝馬に乗ってきたのかと言えなくもない。

1989年の大ヒット「イッツ・フォー・リアル(This Time I Know It’s for Real)」は、良くも悪くもSAWサウンドそのものだ。このままカイリー・ミノーグやリック・アストリーが歌っても違和感を感じない。当時はカイリーの曲を遅回しにして、リックの曲だと言って遊んでいたこともあるぐらい、SAWサウンドは金太郎飴のようにミュージシャンの個性を奪ってしまうと思っていた。

だが、リスナー達は真新しいローブを纏った女王の帰還を歓迎する。そもそも格が違ったのである。ドナが最新の音楽に取り組んだのだから、ヒット必中に決まっている。この曲は彼女の晩年を飾る最後の全米TOP10ヒットとなった。

ダンスミュージックとテクノロジーの幸福な関係


こうして一つの時代を築いてきた彼女のヒット曲やアルバム収録曲の数々を改めて振り返ってみると、彼女が一貫してダンスミュージックと向き合ってきたことが分かってくる。

ダンスミュージックにとって、エレクトリックサウンドは、今や不可欠な要素だ。このコラムでは、テクノロジーと音楽との関係性については、ハード面におけるヤマハや、J-POP制作者としての細野晴臣氏の功績について触れたことがあるが(※1)、ドナの功績もまたエレクトリックミュージックの発展に貢献してきた側面があった。

ディスコの女王は、その役割から必然的に “テクノの女王” でもあったのである。「アイ・ファール・ラヴ」以前にEDMといえるものは、世界のどこにも存在しなかった。大御所となっても「イッツ・フォー・リアル」でユーロビートで若い世代の音楽に挑んだ彼女は、決してヒットを求めて勝馬に乗ったわけではない。

自身が起こし、誰かがアップデートしたムーヴメントを再び自身の下に手繰り寄せたに過ぎなかったのだ。自分で建てた城で女王が何をしようが、誰にも文句を云われる筋合いはない。それは新調した玉座の座り心地を確認しただけのようなものなのだから。


編集部より:
文中にありました「テクノロジーと音楽の関係性」については、以下のアーカイブ記事にも詳しく考察されています。ぜひこちらもご覧ください。

■ 日本の音楽シーンを支える企業「ヤマハ」について考える ー 機器篇
■ J-POP 創生の立役者、細野晴臣の存在感(前篇)
■ J-POP 創生の立役者、細野晴臣の存在感(中篇)
■ J-POP 創生の立役者、細野晴臣の存在感(後篇)


2020.05.17
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