5月

日本の音楽シーンを支える企業「ヤマハ」について考える ー 機器篇

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演奏者の呼称に「キーボード奏者」というカテゴリーがあるが、何となく違和感を覚えることがある。そもそもキーボードというのは、PCと同じで単なる入力装置のことではないか。たまたまそれが楽器の鍵盤の形をしているだけであって、それが何の入力装置かというと、実際に使われている機材からすると、ほぼ「シンセサイザー」への入力に用いられている。

ならば「シンセサイザー奏者」というべきなのだろうが、我々ぐらいの世代であれば、冨田勲か喜多郎のような音楽家を連想してしまうだろう。ステージの上でタンスのような機器の前に座って、ダイヤルを捻りレバーのオンオフを繰り返しながら、鍵盤を弾いている人たちをイメージしてしまうのだ。

今もって定義は明確ではないらしいが、一体いつ頃からあの卓上の小さな鍵盤楽器をキーボードなどという楽器の呼称として使うようになったのか。おそらくそれは80年代にヤマハから発売されたシンセサイザーの歴史的名機「DX7」の登場がきっかけと言えるのではないかと思う。

音楽という文化活動において、ヤマハ製品は多岐にわたって存在し、演奏者からリスナーに至るまでがその恩恵を享受している。幼少期には先生のオルガンで唄い、小学校ではハーモニカやリコーダーを習う。音楽教室に通う子供たちもおり、我々は誰しも人生のどこかでヤマハ製品に触れている。旧社名、日本楽器製造株式会社の名が示す通り、日本の音楽の根幹に関わっているともいえるだろう。

そんな日本の音楽文化のスタンダードを作り、大きな存在感を示してきたヤマハが、80年代のミュージックシーンを席巻する楽器(機器)を世に送り出した。それがデジタルシンセサイザーDX7である。

かつてのシンセサイザー演奏は電子音楽と呼ばれ、クラシックのリメイクや環境音楽のように表現力の限界に挑む先鋭的なジャンルを形成していた。もちろん電子ピアノや電子オルガンはポピュラー音楽にも広く使われていたが、シンセサイザーがロックミュージックなどに本格的に導入されて、リスナーの耳に入るようになったのは、プログレッシブロックが確立された頃からではないだろうか。

その黎明期に使用されていたのは、アメリカで開発された「モーグ」という名のアナログシンセサイザーである。

60年代半ばに登場したこの機器はビートルズが『アビイ・ロード』のレコーディングで使用したことで広く知られるようになり、その後もキース・エマーソン、リック・ウェイクマンなど英国のプログレレジェンドたちが挙って採用して、さらに広まっていった。

モーグが日本に初めて持ち込まれたのは70年頃、最初の3台の購入者は日本の第一人者 冨田勲、東京藝術大学、そしてヤマハであったという。おそらくヤマハがこの機器の先鋭性に目をつけ、徹底的に研究し尽くしたことは想像に難くない。

初期のモーグはタンスのような巨大さに加え操作も難解で、音を奏でるには演奏者の他に音を創るエンジニア「マニピュレーター」を別に立てることが多かった。我々がシンセサイザー奏者として最初にイメージするのはその姿である。

そして冨田勲の下でモーグの演奏を学んだ松武秀樹は、後にマニピュレーターとしてYMOに参画することになる。DX7はこうした日本発のテクノサウンドの興隆を背景として、世界初のフルデジタルシンセサイザーとして市場に投入された。

FM音源という多彩な表現力を持ち、MIDI搭載で和音の発音が可能なDX7は、そのコンパクト性も相まって、他の鍵盤楽器をステージ上から駆逐し始める。

大仰なダイヤル操作なしに、シンプルなボタン操作で制御可能な鍵盤楽器を奏でる演奏者を従来の「シンセサイザー奏者」とは区別するように「キーボード奏者」と呼ぶようになったのは、まさにこの頃からではなかったか。

例えばジャズ・フュージョンのジャンルにおいては電子ピアノになり代わってステージの一角を占めるようになって行く。その代表格、カシオペアの向谷実は、当代きってのDX7使いとして名を馳せた。彼は先の松武秀樹とともにDX7演奏法の教本まで出しているマスターである。

また小室哲哉とTMネットワークの登場は、シンセ音楽とダンスミュージックとの融合を実現した。小室自身は、その後ステージではローランドを好んで使用しているが、TMネットワークは、活動初期にヤマハのサポートを受けていたため、当時の映像には、段積みのDX7の間に埋もれるようにして演奏している様子が見られる。

今ではお馴染みとなった、マルチキーボードの段積みは、単体で和音が出せなかったモーグの小型版「ミニモーグ」演奏の際、発音を分担する必要から編み出されたらしいのだが、DX7登場後もそのパフォーマンスは継承された。

その理由を単に「カッコいいから」と語っていたのは、マニピュレーターとしてTMネットワーク支えた浅倉大介だ。彼はヤマハのアドバイザリースタッフでもあった。あくまで観客へ見られることを想定して機器本体に付けられたDX7のロゴは抜群の訴求力を発揮し、若者たちの憧れを助長した。

また数百万もする高価なモーグに対して、DX7の約25万円という価格は革命的であり、プロ、アマチュアを問わず、ユーザーの輪は、あらゆるジャンルを超え、国境を超え、世界じゅうに広がり、DX7を奏でる「キーボーディスト」が蔓延していった。

中には颯爽とキーボードを演奏しながら自ら歌うボーカリストも登場する。お馴染みなのは1984年の世界歌謡祭「ふられ気分でRock’n Roll」でグランプリを獲得するTOM★CATだ。彼らはグランプリ獲得で、メジャーデビューすると同時に主催者である「ヤマハ音楽振興会」の所属となる。

ヤマハは機器開発だけでなく、ミュージシャンの育成においても音楽界を支えてきたのである。(続く)

2017.10.28
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1965年生まれ
マイケル上大岡
DX-7のキラキラしたエレピ系の音はまさに80年代の音。CP-80とMIDIで結んで両方の音をミックスすることもありました。
2017/11/03 00:58
1
返信
カタリベ
1965年生まれ
goo_chan
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