日本の音楽史に多大な功績を残してきた伊藤銀次
12月24日は伊藤銀次の誕生日。
一般的に見れば、伊藤銀次は知る人ぞ知るアーティストに分類されるのかもしれない。というのも彼自身には目立つ大ヒット曲は無いし(あえて言えばもっとも知られている彼の楽曲は、1982年から2014年までお昼のテレビバラエティの定番だった『森田一義アワー 笑っていいとも』のテーマ曲「ウキウキWATCHING」なのかもしれない)、盛んにテレビに出ていたというタイプでもないからだ。
しかし「Re:minder」をチェックされている音楽ファンの方には、彼が日本のミュージックヒストリーにおいて、アーティストとして、さらにはプロデューサーとして多大な功績を残してきた存在であることは十分に御存知なのではないだろうか。
けれどもうひとつ、そうした音楽的功績とまったく無関係ではないのだけれど、僕にとって伊藤銀次はずっと“どこか不思議な存在感”を感じさせる存在なのだ。
新しい関西テイストのバンド“ごまのはえ”のギタリスト
僕が伊藤銀次のことを初めて知ったのは1972年だった。当時、新進のフォーク系レーベルだったベルウッドレコードから大阪のごまのはえというバンドの「留子ちゃんたら」というシングルがリリースされた。曲名や歌詞のクセの強さも印象的だったが、なによりブリティシュ・カントリー・ロック・テイストのサウンドが心に残った。このごまのはえのギタリストで「留子ちゃんたら」の作詞・作曲者が伊藤銀次だった。その年の秋、僕は東京で行われた彼らのライブも見ている。
ちょうど同じ頃、桑名正博がヴォーカリストだったファニー・カンパニーが「スイートホーム大阪」をリリースするなど、いわゆる濃い味の関西ブルースとは違うテイストの関西のバンドを耳にする機会があった。その流れで、ごまのはえも新しい関西テイストのバンドとして興味を抱いたのだ。
大瀧詠一に委ねたプロデュース、洗練されたポップテイストに!
しかし翌1973年に彼らはバンドごと上京して大瀧詠一にプロデュースを委ねた。そしてココナツ・バンクと改名し、布谷文夫のアルバム『哀しき夏バテ』に参加するなどの活動をしていたが、同年9月21日に東京・文京公会堂で行われたはっぴいえんど解散コンサート『CITY』の出演直後に突然解散してしまう。
結局、ココナツ・バンクとしての作品は数えるほどしか発表されなかったが、ごまのはえ時代とは違う洗練されたポップテイストがより完成した形で作品化されていたら、かなりエポックメイキングな存在になれていたのではないかという気もする。
しかし、今さら時を戻すこともかなわない。その後、伊藤銀次はシュガー・ベイブとの交流や、大滝詠一、山下達郎とのジョイントアルバム『ナイアガラ・トライアングル』(1976年)などのセッション活動を経て、アルバム『DEADLY DRIVE』(1977年)でソンガ―ソングライターとしてもデビューする。
こうした活動を横目で見ながら僕が伊藤銀次に感じていた“どこか不思議な存在感”とは、彼から感じる関西の人らしくないテイスト、と言い換えてもいいだろうか。
なぜ僕がそんなことに興味を持ったのかを説明しておく必要があるだろう。
東京と関西の音楽シーン、伊藤銀次の絶妙な距離感
今でもその傾向はあるかもしれないけれど、当時、東京と関西の音楽シーンは、まったく別の文化圏というほどの違いがあった。フォークのシーンでも、1960年代後半に京都、大阪を中心に盛り上がった関西フォークのムーブメントは、カレッジフォークが主流だった東京とはかなり違うテイストをもっていた。
ロックシーンでも東京のバンドにはハードロック、カントリーロックなどコンテンポラリーなサウンドを打ち出したものが目立っていたのに対して、関西ではアーシーなブルースバンドが一大勢力になり、まったく違う様相を示していた。
そんな、極端に言えば東京とは異文化圏ともいえる関西で活動をスタートしている伊藤銀次が、ある意味で東京的テイストの中心だった大瀧詠一の懐に飛び込み、その後東京のシーンをベースとして活動を続けていくという動きも、かなり特異なものだったと思う。
しかも、彼の音楽性やキャラクターも、けっして関西的価値観を主張するものではなく、かと言って東京に染まり切っているわけでもない、その絶妙な距離感が彼ならではの不思議な個性となっているように感じられた。
伊藤銀次がもつ“どこか不思議な存在感”の正体とは?
一見水と油のようにも思える関西的感性と東京的テイストとが、伊藤銀次の感性の中で絶妙なバランスにブレンドされ、そのエッセンスが熟成したハイブリッド感のある音楽性となって表現されているのではないかとも感じられた。
もしかしたら、そんな彼の個性には関西の人から見ても、東京の人間から見ても微妙に違いを感じるのかもしれないし、それが僕が彼に感じる“どこか不思議な存在感”の正体かもしれない。
そして、この独自の感覚を持っていたからこそ、彼はプロデューサーとして東京のアーティストも関西のアーテイストも輝かせることができるのではないか。80年代以降の伊藤銀次が、シンガーソングライターとしての活動と並行して、佐野元春というまさに東京のエッセンスにあふれた新世代アーティストを輝かせ、さらにはウルフルズという関西の新世代アーティストを輝かせていったのを見ると、東京のアーティストと関西のアーティストの持ち味を適確に捉え、しかもそれを押し付けがましくなく、純度の高い魅力としてアピールできるという稀有な才能を感じてしまうのだ。
実は、僕が同じようなことを感じたのは伊藤銀次に対してだけではない。かつて彼とともにごまのはえ、ココナツ・バンクで活動したドラマーの上原(ユカリ)裕にも、関西人らしいクセの強さとは違う独特の都会人的センスを感じた。伊藤は大阪、上原は京都の出身だが、ごまのはえが関西とは一味違う感覚を持ったメンバーによって構成されていたことも、東京に居た僕が彼らの音楽に深い興味を感じた理由だったのかもしれない。
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2021.12.24