細野晴臣という名前を僕らが広く知るようになったのは、おそらく80年代初頭を席巻したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとしてのことだと思う。
まだ日本に J-POP などという言葉も概念も存在しない頃から、日本のポピュラーミュージックシーンの折々に姿を現し、リスナーのみならず、多くの音楽家たちにとっても水先案内人となって、進む先を照らし続けてきた彼のことを音楽ライターの前田祥丈氏は1985年の著書で「音楽王」と称している。
細野のキャリアの起点にあるのは、まだ学生時代の1969年にメジャーバンド化した「エイプリルフール」、次いで日本語ロックの原点といわれている伝説のバンド「はっぴいえんど」にある。
いわゆるサイケデリックロックやアートロックの影響を受け、電子楽器を多用した演奏スタイルを重視し、ライヴバンドであろうとした前者に比べ、後者は楽曲制作に注力して、アルバム制作に重きを置いた活動を展開していった。これを考えると、細野晴臣が音楽家としての頭角を現すのは、むしろ後者からと考えるべきである。
「はっぴいえんど」のメンバーを見ると、ベースを務めた細野をはじめ、ギター大瀧詠一、同じくギター鈴木茂、ドラムス松本隆という編成で、僕らはリアルタイムで80年代の彼らの作品を聴いている。そんな彼らがソロ活動のなかで新しく創りあげた音楽のルーツを辿ると、このグループに行き着いてしまう。だからどうしてもその存在を神格化して見る傾向がある。
それにしても、改めてその代表作「風街ろまん」などを聴くと「これがロック?」などと感じてしまう。だが僕らが流行り音楽を選んで聴き始めた時代には、すでに音楽のジャンルの色分けは進んでいたのかも知れない。
8ビートという構造的な特徴はあれど、当時の演奏家たちにしても、ロックとはどちらかといえばスタイルや思想といった概念に近く、カッコいいものであることが絶対条件であった。だから僕らにはそれが「日本語ロック」の始まりといわれても実はピンと来ないのだ。
70年代末にサザンオールスターズが登場した時には「日本語をロックに乗せた」といわれ称賛された。今では考えられないが「ロックは英語詞でなければ」という考え方は、長い間日本の音楽界を支配しており、「エイプリルフール」もそれを地で行くバンドであった。しかし音楽観の相違から分裂。わずか数ヶ月で解散となった。そして細野と盟友であった松本の二人が、以前から知己の間柄であった大瀧と鈴木を引き入れて結成したのが「はっぴいえんど」である。
後に「日本語ロック」のパイオニア的存在に担ぎ上げられた彼らだが、形式的に許容度が大きいアメリカのフォークロック的なアプローチを目指していたため、その音作りは心情的に当時フォークを演っている人たちに近かったと細野は語っている。
一方、国内では「ロックはこうでなければ」という様式美にこだわる人たちはブリティッシュロックを志向する傾向があった。だから「はっぴいえんど」の面々は、堅苦しいブリティッシュロックではなく、日本語をロックに乗せようと、アメリカンロックのスタイルを目指していた。
その際よく引き合いに出されるのが、ニール・ヤングやスティーブン・スティルスらが所属していた「バッファロー・スプリング・フィールド」というバンドである。他にも、その頃の音楽を象徴した存在であったボブ・ディランやジェームス・テイラーといった力強い言葉を持つシンガーソングライター達の影響も大きかった。
ライブよりもレコーディングを重視していたメンバーたちの演奏力は、決して高いとは言えなかった。それでも彼らは楽曲づくりにのめりこみながら音楽家としての礎を築きつつ、それぞれの世界観を強めていく。
日本語ロックの推進力となっていた松本は作詞に傾倒し、大瀧は CM音楽を手掛けながらプロデュース業を始め、自身の「ナイアガラ・レーベル」設立を目指して着々と準備を進めていった。しかし、「はっぴいえんど」は先鋭的な役割を果たすものの、セールス的に大きな成功を収めることなく、3年で解散に至った。
細野もまたソロ活動を強めつつ、鈴木とともに次なるプロジェクトに移行していく。創作に重きを置いた活動を続け、自らスタジオミュージシャンとして腕を磨き、松任谷正隆、佐藤博、林立夫らとの交流を深めながら結成したのが「キャラメル・ママ」、後の「ティン・パン・アレー」という音楽ユニットだ。
こちらではライブはおろか、バンドとしての活動よりも、活躍のフィールドをスタジオに置き、音楽プロデュースを行うチームとしてその存在感を高めていった。その代表格が「荒井由実」。その後メンバーと結婚し、松任谷姓を名乗ることになるユーミンである。
日本のポップス史において彼らに影響を受けたミュージシャンたちを一頃「ティン・パン・アレー派」と称した時期があった。彼らには代表作すらなくとも、こうして音楽界にその名を刻むことになるのだが、細野はこうした活動を続けながら、ソロ活動に没頭していく。この頃から制作したアルバムは実験的な試みにあふれており、ソロアーティストとしての細野晴臣のカラーが最も色濃く出ている。
細野晴臣は、今、海外のアーティストからも注目され、デビュー50周年を迎えた今年、3月には当時のソロアルバム『HOSONO HOUSE』を自らリアレンジをして再リリース。5月15日には『はらいそ』『フィルハーモニー』がリマスタリングでリリースされた。
こうして常に新しいこと、興味のあることに没頭し追求を重ねることから、細野晴臣の音楽人生はいつもシーンの最先端にあろうとしている。
だが、一人ではやれることにも限界がある。メンバーそれぞれの活動も充実するなか、70年代も後期に差し掛かり、ティン・パン・アレーとしての活動は終わりを迎える。
再びバンド活動への関心が高まってきた頃、細野の関心を引いたのがいわゆる「打ち込み系」と呼ばれる音作りとコンピュータを用いた音楽であった。
ちょうどこの頃「サディスティック・ミカ・バンド」からの脱退が決まっていたベーシスト小原礼の後任として勧誘を受け、一時期本気で加入を考えたというが、結局断ることになる。その時の断り文句は、
「実はもう新しいバンドをやることになっているから」
というものだった。その時、まだ YMO のことは、細野の頭の中に漠然としか思い描かれていなかった。
【中篇に続く】
2019.05.16