2月21日

J-POP 創生の立役者、細野晴臣の存在感(中篇)

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photo:SonyMusic  

【前篇から続く】

「ティン・パン・アレー」の活動も「はっぴいえんど」同様にメンバーの歩みと共に緩やかに終焉を迎えていった。しかし細野は例えば「音楽性の相違」などという理由で喧嘩別れのような形でバンド活動を終わらせることは無かったようである。

ソロアーティストは自己が作品に色濃く反映されるため、時折それを重く感じていた彼にとって、バンド活動はシェルターのような役目を果たした。作詞やボーカルといった自分では限界が生じてしまう要素についても、ある意味、共犯者的なメンバーの力量をもって超えようとするのが、細野晴臣のバンド観なのだろう。

「はっぴいえんど」で3年弱、「キャラメル・ママ」から「ティン・パン・アレー」でおおよそ4年、この後に続く「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」においても約5年と、徐々に長くなってはきているが、彼がリーダーを務めてきたグループは決して長続きしていない。常に新しいことに取組み、自分のやりたいこと以外には決して固執しなかった。メンバーのベクトルが変わってきた時にそれを許容してきたからである。

細野が次に目指したものは、最新のテクノロジーを使って音楽を奏でることだった。機械にできることは機械に委ねながら、自分たちは演奏者としてできることを付加していく。徹底してグルーブ感を排除しながら、淡々とリズムを刻み、生音では発することができない音を重ねていく。YMO は、そうした細野の提案に共感した坂本龍一と高橋幸宏とによって、当初は言わばプロジェクトのような形で結成された。

それはバンド経験のない坂本と、サディスティック・ミカ・バンドを抜けて間もない高橋への配慮であった。優れた演奏家にとって「機械に演奏を委ねる」という点において、多少なりとも戸惑いがあったのではないかと想像されるが、彼らはそうではなく、むしろその可能性に高揚感を感じていたという。

例えば初期の YMO では、よくシーケンサーを駆使して紡ぎだした音を各プレーヤーが演奏で再現したり、またその音を機器に取込んだりという作業を行っていたという。スタジオでのレコーディングならまだしも、ライブパフォーマンスにおいては、その再現性においてまだ信頼性が十分でなく、技術的なトラブルが発生することも少なくなかった。本来はそれこそデジタル音楽の真骨頂というべきだろうが、現実には彼らが高い演奏力でカバーし、克服していった。

YMO の成功はミュージックシーンに大きなインパクトをもたらした。それまで環境音楽のような BGM や一部ゲーム音楽などといった、実用性オンリーの無機質なものだった PC音源による音楽は、YMO によってロックやフュージョンサウンドといったポピュラーミュージックの領域まで、その可能性が拡げられたといっていい。

細野はまたその着想とコンセプトワークによって、YMO の世界観を形作っていった。「ファイヤークラッカー」や「東風」に代表される東アジア的なサウンドと、人民服やテクノカットと言われた特徴的なヘアスタイルなど、ビジュアルアイデンティティを徹底したことは YMO の世界戦略上も大いに有意義であった。

デビュー時にはさして注目されなかったが、ワールドツアーの成功を経て、いわば逆輸入のような形で凱旋した彼らを音楽ファンは放ってはおかなかった。同時にそれは常に最先端である故に異端であり続けた、細野の音楽が初めてメインストリームに躍り出た瞬間でもあった。

YMO が5年も続いたのは、ファンの強い支持があったからである。日本を代表する人気グループに上り詰めたことで、フォロワーとなるファン層が流入。マス化したファンは彼らの変節を許容しない。先駆者としては、早く次のステージに進みたいと思っていても、ファンはいつまでも「テクノポリス」や「ライディーン」のような楽曲を期待してしまうのである。

なぜなら YMO が切り拓いた市場には、YMO しかいなかった。その背中があまりに遠く、追随するミュージシャンが不在であったがゆえに、リスナーたちの期待を一身に受け続けた。出せば売れるという状況と、大衆に求められる YMO のパブリックイメージとのギャップ、要求に応え続けなければならないという圧力…。

それこそまさに「公的抑圧」であるが、メンバーはこれらに苦しみ、時折意表をついてファンが付いて来られるかどうか、試そうとしていた。何よりバンド活動をシェルターとしてきた細野にとって、この状況は耐え難いものだったに違いない。

だが、やがて救いの手は、かつての盟友、松本隆より、いわゆるアイドル歌謡の作曲依頼という形で差し伸べられた。

すでに作詞家として確固たる地位を築きつつあった松本は、歌謡曲の分野でいくつもの案件を抱えていた。そもそも松本に詞を書くように進めたのは細野なのである。楽曲制作に関してよく話題となる「曲が先か、詞が先か」ということについては、それぞれのミュージシャンのスタイルであるが、普段は曲が先行する細野も大瀧も「はっぴいえんど」の頃から、松本が詞を書く場合は「詞が先」と決まっていた。

当然、松本のプロジェクトは詞ありきの作曲依頼となるから、気心知れたかつての仲間に声がかかるというのは当然の成り行きである。松本の依頼で1981年の YMO 全盛期に手掛けたのが、イモ欽トリオ「ハイスクール・ララバイ」である。

この楽曲は人気番組『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』の挿入歌であり、演出自体が YMO の演奏スタイルをパロディにしていたから、作曲が細野晴臣ともなると、箔がついて話題となり、テレビ番組の人気も手伝って大ヒットとなった。

細野はこうしてシェルターを失った代わりに、自らの作家性を問われたり、大衆からのプレッシャーに苛まれたりせず、純粋に曲作りを愉しめる歌謡曲への楽曲をいくつも手掛けるようになる。

これについて細野は、ずっと「何年か早い」と言われ続け、異端扱いされてきた自分には「歌謡曲なんて柄じゃない」と思ってきたが、YMO が売れて、自分の音楽が受容れられた今なら、他人に曲を書いてもよいのではないかと思えるようになったと、その頃の心境の変化を語っている。

細野の前向きな姿勢を確信した松本が、満を持して提示されたオファー、それが松田聖子への楽曲提供である。

【後篇に続く】

2019.05.30
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カタリベ
1965年生まれ
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