10月5日

くじらのアルバム「TAMAGO」ベルリンのハンザ・トンスタジオでミックスダウン

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photo:SonyMusic  

これまでのあらすじはこちらをご覧ください
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『くじらが捉えたヨーロッパの感覚、音に奥行きが出たパリのレコーディング』

デヴィッド・ボウイのベルリン3部作も作られたハンザ・トンスタジオ


“くじら” のレコーディング、パリを発ち、いよいよ、ベルリンへ移動です。

「ハンザ・トンスタジオ」でアルバムのミックスダウンを行いました。有名なスタジオです。デヴィッド・ボウイがブライアン・イーノと組んだベルリン3部作はここで作られましたし、“デペッシュ・モード” や後には “U2”、日本人では “一風堂” や加藤和彦さんも使っています。長いこと、「ハンザ・トン」という名前だと思っていたんですが、“tonstudio” がドイツ語で “recording studio” の意味なんだということを、最近知りました。“ton” は音、英語でいう “sound” だそうです。“tone”(音色)の仲間でしょうね。

ベルリンの壁崩壊が1989年ですから、我々が訪れたのは、壁によって分断された西ベルリンでした。そもそもベルリン自体、西ドイツからはだいぶ離れた東ドイツの真ん中に、ポコンと飛び地のようにあったわけで、なんとも妙な具合。たとえば日本が、「糸魚川-静岡構造線」で東西に分断されつつ、東京の山の手だけ “西日本”、浅草も横浜も、浦安も草加も、“東日本” という異なる国になっているようなものです。

だけど、ナチス・ドイツの同盟国として敗戦した日本ですから、もしこのようにされたとしても、文句は言えない状況だったわけで、その意味でもベルリンは興味深かった。

実は当時の西ベルリンは、正しくは、西ドイツ領ではなくて、米英仏3カ国による “占領地域” だったそうです。そう言えば、パリから直接西ベルリンに飛ぶ飛行機はなく、フランクフルトで一旦降りて、西ドイツへの入国審査をしてから、改めて西ベルリンに向かったのですが、それが理由なのかな。

スタジオの窓から眺められた東ベルリンの街並みは…


スタジオは壁のすぐそばでした。壁はそんなに高いものではないので、スタジオの2階の窓から眺めると、見張り台に立つ武装兵士と、その向こうに、東ベルリンの殺風景な街並みが、垣間見えました。

また、近くにだだっ広い空き地があり、その片隅に、建物の残骸と思われる、煤けたレンガの大きな壁が突っ立っていました。訊くと、鉄道の駅だったそう。おそらく戦火で崩壊した駅舎の玄関だけが残っているのです。あるいは、もう使われていない、路面電車の線路を辿っていくと、東西の壁にぶつかって、そこで終わっています。繁華街の方へ行っても、黒焦げになった古い教会が、一部だけ修復されて、建っていたりします。つまり、戦争の爪痕が、あちらこちらにしっかり残されているのです。広島の原爆ドームみたいなものが、いくつもあるような状態。戦禍を思わせるようなものなど少しもない東京と比べて、これはとても印象的でした。

その時は、民族の気質の問題、「喉元すぎれば熱さを忘れる」日本人と、「頑固で几帳面な」ゲルマン人の違いかなと思っていたのですが、やはり占領地域だから、あえてそうしていたのかな。

ハンザのアシスタントエンジニア(名前は忘れてしまいました)が、東にいる親戚に会いに行こうとして、国境検問所で、バッグの奥につい入れたままだったマリファナのパイプが見つかり、それきり出入り禁止となってしまった、と話していました。数年後に東西統合されることなど、その時は考えもしなかったですから、彼はもうその親戚とは一生会えないと思い込んでいたし、我々はそんな身近な不幸に同情したり、日本人のラッキーさを思ったりしました。壁がなくなって、ほんとにうれしかっただろうな。

くじらメンバー、同行スタッフで歩いた東ベルリン


レコーディングの合間に、みんなで、一日、東ベルリンに行ってみました。一日限りのビザは簡単に発行してくれるのですが、「チェックポイント・チャーリー」と呼ばれる検問所では、ポケットやバッグの中をしっかり調べられました。これでアシスタント君はアウトだったのですね。

東ベルリンは全体的に暗めで、くすんだ感じでした。検問所に近いからでしょうが、ちらほらと、銃を持った兵士の姿もありました。特に「ソ連大使館」の前の通りを歩いていると、10m置きくらいに、兵士が怖い顔をして立っています。するといきなり、ザーッという音がして、何事かと思ったら、大量のフィルムが道を転がっていくではないですか。振り返ると、EPIC ソニーの宣伝担当スタッフ、清水浩くんが慌てています。

彼は、ウエストバッグ(当時海外旅行にはよくつけていったものです…)に、カメラマンから預かったフィルムをしこたま詰め込んでいたのですが、何をどうしてそうなったのか、それを道路にぶちまけてしまったのです。一般の観光客にはありえない量のフィルム。よりによってソ連大使館前。「こりゃ、兵士に捕まって尋問されるかもな」と、一瞬恐怖におののきましたが、清水浩の顔が、あまりにも平和だったおかげか、何のお咎めもなく、その場を離れることができました。

途中から自由行動にして、バラバラになり、私など、特に面白いこともないので、早々にスタジオに戻りました。やがて三々五々戻ってきて、感想など語り合っていたのですが、なんと、日が暮れる頃になっても、ドラムの楠均くんが帰ってきません。ふだんからオットリしている、と言えば聞こえはいいですが、正確に言うとウッカリさんなので、心配でした。が、携帯電話以前の時代ですから、どうしようもありません。

公園のベンチで昼寝してそのまま寝てるんじゃないかとか、帰りのことも考えずあまりにも遠くまで行ってしまったんじゃないかとか、挙動不審で当局に連行されたんじゃないかとか、喧々囂々の騒ぎになっていると、やがて、ひょいと、何事もなかったように帰ってきました。「何してたの?」「いや、べつに」…。

パリとベルリン、この対照的な2つの街に、ほんの少し暮らして、仕事をしたことは、メンバーそれぞれ、そして我々同行スタッフたちにも、忘れがたい経験と、味わい深い心の糧を、与えてくれました。それで音のクオリティは上がったのか、より売れるものができたのか、と問われると、胸を張って「Yes!」とは応えられませんが、こうした経験と糧を練り込んで、陰影のある作品ができた、とは言えると思っています。


※2018年9月19日に掲載された記事をアップデート


2021.08.28
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カタリベ
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