11月14日

もしも中森明菜が「飾りじゃないのよ涙は」に出会っていなければ?

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中森明菜の音源リイシューで感じるテレビの力


この何年間かは公の場所に姿を現してはいないが、デビュー40周年を控えた2021年にアナログ・シングル盤ボックスセット『ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982-1991』(2021年6月)、『Listen to Me -1991.7.27-28 幕張メッセ Live<2021年30周年リマスター>』(2021年7月)がリリースされ、さらに2022年にも『AKINA EAST LIVE INDEX-XXIII<2022ラッカーマスターサウンド>』(2022年3月)がリリースされたり、先ごろにも『プロローグ〈序章〉』『バリエーション〈変奏曲〉』といった初期アルバムがリイシューされるなど、続々と音源のリイシューが続いている。

また、2022年4月にNHKのBSでオンエアされた『伝説のコンサート~中森明菜』(1989年のデビュー8周年コンサート)が大きな話題となり7月に総合放送で再放送された他、WOWOWでも何本かの過去のライブ映像が放送されるなど、ライブシンガーとしての中森明菜に関しても静かな盛り上がりを見せているという感じがする。

レコードとライブはミュージシャンとしての活動の二本柱だ。多くのアーティストはライブ活動によって力をつけ、それが認められてレコードデビューする… という流れをたどっていく。そして、レコードリリースとライブとを連動させて、楽曲とともにアーティストの魅力をプロモートするというスタイルをつくりだしていった。

ところがラジオやテレビの普及によって、それまでとは違う流れが生まれる。マスメディアの伝播力を使ってレコードを拡販するという手法が広がっていったのだ。

ラジオの時代と呼ばれた1950~60年代には、音楽番組のDJにレコードをかけてもらうことがプロモーターの大切な仕事だった。しかし、1960年代にはビートルズのアメリカ上陸に際しての『エド・サリヴァン・ショー』出演や、モンキーズを売り出すために作られたレギュラー番組『モンキーズ・ショー』など、テレビを使ったアーティストやレコードのプロモーションも仕掛けられるようになる。

日本でも1970年代以降はテレビが大きな力を持つようになり、音楽番組への出演、CMソングやドラマ主題歌などとタイアップしてヒット曲を狙う仕掛けも一般的になっていった。テレビがヒット曲を生むメディアとして大きな力を発揮するようになるとともに、レコード会社やプロダクションは、テレビとのタイアップによって有力な歌手を売り出すことに力を注ぐようになる。

その余波として、歌手をデビューさせる際にもシンガーとしての才能よりもテレビに映った時のビジュアル的魅力を優先するようなケースも生まれていく。その結果、アマチュア時代にライブ経験が無く、自分が発表した曲しかレパートリーが無いためテレビの歌番組用のパフォーマンスしか出来ないという歌手も居たりしたという。

他のアイドルとの差別化で与えられた中森明菜のイメージ


1980年代のアイドル歌手には、デビューした年にいきなり膨大な数の曲を発表するケースが少なくない。そこには、デビュー曲に手ごたえがあった有望な新人に十分なレパートリーを持たせるという意味もあったのだと思う。

デビューした年の中森明菜もシングル3枚、アルバム2枚を発表し、いきなり22曲の持ち歌を手にしていた。それは新人としての中森明菜が成功裏にスタートを切ったという証拠でもあると同時に、彼女がテレビと連動したヒット曲製造サイクルに組み込まれていたことも示していた。



中森明菜がデビューした1982年はアイドル豊作の年と言われ、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優、伊藤さやか、原田知世など、各社がアイドル売り出しにしのぎを削っていた。その中で、他のアイドルと差別化を図るために中森明菜に与えられたのが「少女A」に代表される “危険な早熟少女” というイメージだった。

本人はそのイメージを本気で嫌がったというエピソードも聴くけれど、聴き手にとってみれば、それが他のアイドルとは違う中森明菜の個性と捉えられてもしかたがなかった。

新しい魅力を打ち出した「飾りじゃないのよ涙は」


そんな中森明菜への先入観を大きく覆したのが1984年11月に10枚目のシングルとして発表された「飾りじゃないのよ涙は」だった。

それまで彼女のシングル曲は、作曲こそ来生たかお、芹澤廣明、大沢誉志幸、細野晴臣、林哲司、玉置浩二、高中正義… とかなりチャレンジングなソングライター起用をおこなっているが、作詞に関しては、来生えつこ、売野雅勇、康珍化という手練れの専業作詞家によって世界観がコントロールされていた。

しかし「飾りじゃないのよ涙は」は作曲だけでなく作詞も井上陽水が手掛けた作品で、中森明菜にとっても本格的にシンガーソングライターと組んだ初めてのシングルだった。そして、この曲によって彼女は新たな魅力を打ち出すことに成功する。

楽曲的には、井上陽水ならではの、ちょっと投げやりでいながら人の心にまとわりつくようなメロディラインが心に残る。歌詞もそれまでの “中森明菜的” な世界観を受け入れながらも、よりアクティブで意志的なキャラクターへと “脱皮” させたと解釈できるものになっている。だから聴き手も、彼女のそれまでの楽曲との大きな違和感を感じずに、中森明菜の “新境地” を受け入れることができるようにつくられていた。

萩田光雄による編曲も、井上陽水のどこか影のある曲のニュアンスを、ロックテイストを生かしたサウンドによって、よりエモーショナルでキャッチ―に感じさせる素晴らしいものだった。

そしてなにより圧倒されるのが、その演奏にのって歌う中森明菜のドライブ感あふれる力強いヴォーカルだった。まさに、歌に感情を載せて表現できるシンガーとしての “実力” を見せつけられた思いだった。

皮肉なことに、中森明菜に “危険な少女” というレッテルを与えたのもテレビだったけれど、その先入観を越える中森明菜の “凄味” を伝えてくれたのもテレビだった。

今もYouTubeなどでよく見かけるけれど、1987年12月に放送された『夜のヒットスタジオ』での、井上陽水、玉置浩二との「飾りじゃないのよ涙は」の共演は、いわゆる定型化された歌謡曲に物足りなさを持っていたリスナーに圧倒的なインパクトを与えた。

当時、歌謡曲歌手とは一線を画す存在だった井上陽水や玉置浩二と対等に渡り合いながら曲に込められている情感の全てを絞り出していくような歌唱は、それまでテレビで見る中森明菜からは感じらたことがれない迫力だった。

開花したライブシンガーとしての本領


「飾りじゃないのよ涙は」をきっかけに、中森明菜はアイドルとしてのキャラづけを越えた “シンガー” としての側面を開花させていくようになる。当然、その後のレパートリーもより幅広い音楽性にアプローチするものが増えていった。しかし、同時にそれは中森明菜がアイドルというカテゴリーから逸脱しようとしていくということでもあった。

彼女のデビューがあと2~30年遅かったら、テレビとのタイアップによるヒット曲量産システムもかつての圧倒的な力を失っている分アーティストの自由度も高く、もしかしたらアイドルというポジションに軸を置いたままアーティストとしての可能性を広げることが当時よりスムーズに出来たのかもしれない。

けれど、現実として中森明菜が歌手としての表現力を高めていくにつれ、ヒット曲シンガーのメインストリームからは外れていく。そして、彼女は知る人ぞ知る実力派シンガーという見方をされていった。

ヒット曲歌手としてメディアで脚光を浴びながらシンガーとしての可能性を追求するなかで違うステージに移っていったのは中森明菜が初めてではない。



ちあきなおみも「喝采」でレコード大賞を受賞して脚光を浴びた後、次々とヒット曲を求められて脈絡なくさまざまなタイプの曲を歌うが、どんなタイプの曲も見事に歌いこなし、さらに自分の歌うべき歌を探して、アメリカン・スタンダード、ポルトガルのファド、戦前・戦後日本のモダン歌謡などに取り組み、ライブ、ミュージカルなどのライブでも活躍、オンリー・ワンのシンガーとして高い評価を受けていった。

また、中森明菜より若い世代だけれど、松浦亜弥もテレビがプッシュするアイドルからコンサート中心のシンガーへとステージを替えて高い評価を受けている一人と言えるのではないかと思う。

デビュー40周年を期してテレビ放映される中森明菜のライブは1989年の「伝説のコンサート」以降の彼女のライブシンガーとしての本領を再確認させてくれるものばかりだ。

アイドルから出発し、ヒット曲歌手としてキャリアを経て、シンガーとしてのさらなる充実を目指す音楽活動へとステージを移しながら、彼女にしか表現できない歌を極めていった中森明菜の足跡が、そこからは垣間見えてくるハズだ。

そんな “歌姫” 中森明菜のヒストリーも、もしかしたら「飾りじゃないのよ涙は」に出会っていなければまったく違う軌跡になっていたのかもしれない。

はたして、中森明菜にとってどちらが “成功” だったんだろう。ふと、そんな想像をしてみたくなってしまった。

中森明菜40周年 1982-2022

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2022.07.13
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カタリベ
1948年生まれ
前田祥丈
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