六本木や渋谷のクラブで盛りあがった“山本リンダタイム”
あれは確か1990年の年末近く。
深夜に元モデルの友人女子からの電話が鳴って渋谷で会うことになった。美人の彼女のお願いごとは大抵聞いてきたが、今回ばかりはかなり荷が重かった。
「山本リンダさんが今度クラブイベントやるのよ。私の旦那がヘアメイクやるんだけどスタイリストが不在でリンダさんのこだわりもあって衣装が難しいからロニーの助けが必要なの」
さらに話を聞くと、衣装スタイリングはできれば3着で、踊りやすく舞台映えするもの。しかも2週間以内の用意で予算はタイト。
「今ね、六本木や渋谷のクラブで山本リンダタイムがあって凄い盛り上がりなのよ。ロニーならリアルタイムのリンダさん知っているからスタイリングしやすいでしょ?」
うーん、アパレル業界は長いが、裁縫は自己流だし全く自信がない。友人は私がやると言うまで帰さない勢い。コーヒーとワッフルをギャラ代わりにご馳走になり、その日から夜なべ作業を開始。
衣装イメージは映画“バーバレラ”、ニーハイブーツはトレードマークに
確かに、小学生時代一番憧れた歌手が山本リンダだった。テレビに映る、赤いシャツを胸下に結びおへそを出して踊る彼女に目が釘付け。もともとはモデルで「こまっちゃうナ」でデビューした話を母親から聞いた。何故かうちにあったそのデビューシングル、歌い方も容姿もガラリと違うことに驚いたが、私は「どうにもとまらない」と激しく腰を振る彼女のほうが大好きだった。
時間も予算も無いなか、予算の大半はニーハイブーツに消えたため、衣装は私の私物をリメイク。イメージは映画『バーバレラ』… と、いわゆるSMの女王様っぽい感じで3着用意した。
リンダさんはクラブイベントも初めてだし、ましてや若い人が自分の70年代の歌で盛り上がり踊る光景がなかなか想像出来ない様子だったが、友人が私の提案を伝え資料や衣装を見せたところ全て気に入ってくれた。特にニーハイブーツは見たことも履いたこともなかったようだが、いたく気に入り、それ以来ステージで愛用するトレードマークに。
山本リンダ、80年代後半のクラブシーンから再ブレイク
80年代後半からじわじわと来ていた山本リンダ再評価の波は「リンダ現象」と呼ばれ、米米クラブがカバーしたり、ちびまる子ちゃんが歌ったり、DJたちも夜な夜なプレイして盛り上げた。
そして1991年3月、その集大成としてクラブチッタで行われた『CLUB DIAMONDS』というイベント。DJは大貫憲章、演者は電気グルーヴと東京スカパラダイスオーケストラ、バックを踊るのはMORE DEEPという豪華さ。当時の東京の空気感を代表するイベントとして満員御礼、かつ今でも語り継がれている。皆が「あの山本リンダと共演できるなら!」と二つ返事だったらしい。
60年代に歌うモデルとしてデビューし「ジャパニーズ・ツイッギー」と呼ばれた山本リンダ。70年代の扇情的な歌詞でお腹や背中を露出しながら激しく唄うアクション歌謡を経て、80年代後半にクラブシーンから再ブレイク。
ちなみに、1972年の「どうにもとまらない」は阿久悠・都倉俊一の黄金コンビとの初仕事。山本リンダの70年代路線は後のピンク・レディーに繋がっていく。
リマインダーのカタリベでもある盟友の本田隆氏に「キャロルはグラム」という名言があるが、私的には「リンダはグラム」だ。綺麗で、煌びやかで、妖しくて、いかがわしくて、純粋で、「神がくれたこの美貌」と唄いあげる歌手は彼女以外不適格。だから小学生時代からずっと憧れ続けている。
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2022.03.04