1978年のブロンディ来日公演、伝説となった理由とは?
良くも悪くも “伝説” として語り継がれるライブがある。私が観た中ではブロンディの初来日公演がそれだ。
時は1978年――
ちょうど2枚目のアルバムを出した直後に来日。私が観た中野サンプラザは何と1階席の最前列から2列目位しか人がいなかった。
デボラ・ハリーが「寂しいから皆もっと前に来て!」と煽りながら1~2枚目のアルバムからほぼ全曲演奏。荒削りだがどの曲もちょっと懐かしくてキャッチー。また、シングル曲の「Xオフェンダー」や「夢見るキッドナッパー」など、サラリと性犯罪者や幼児誘拐を歌うあたりが、恐らく会場最年少の私には刺激的だった。
ライブ中盤、彼らは互いの楽器を交換して演奏したり、デビーは座り込みおもむろにカメラを持ち会場のファンを撮影しだした。
うろ覚えだが「日本に来て初めて地震を体験したの。エキサイティングでゴジラが来たみたいだった!」とか「時差ボケでさっき起きたの」やら、MCと言うより彼らも悲惨な客入りに演奏しながらあれこれ持て余してるように見えた。
結局残りのツアーは全部中止。彼らもストレスからか宿泊先のホテルで騒いで最後はビジネスホテルに移動するなど、初めての日本でのコンサートは苦い思い出になったはずだ。
それでも私はライブを最前列で食いいるように観て、小柄でキュートなデボラ・ハリー率いるブロンディに夢中。ライブの後、デボラ・ハリーを気取って彼女が買ったと言う地下足袋を買って履こうとしたら母親に止められた。
その後、足袋の代わりにニーハイブーツを買うことになった1980年、シングル「コール・ミー」が英米チャートの1位になる。映画『アメリカン・ジゴロ』の主題歌にして、当時は街でもディスコでもかかりまくり。
幻となった再来日公演とデボラ・ハリーの人間性
名実共に大スターになったブロンディは、1982年に再来日するはずだったが、寸前でまさかの全公演中止。
かくして、泣く泣くチケットを払い戻しした “幻の公演” になった。
当初「デボラ・ハリーが失踪」との噂が流れたが、実は彼女のパートナーのクリス・シュタインが尋常性天疱瘡を発症し治療に専念するのがキャンセルの真相で、程なくしてバンドは解散。
この時期、デボラは映画に出たりソロ活動に積極的になった。これはクリスの治療費のためと言われており、一説によるとブロンディー時代の収入の半分以上がクリスの闘病に充てられたと言われている。
そのデボラの献身もあってクリスは回復し、その後なんと別の女性と結婚、子供も2人産まれた。男女の色恋は当人同士しか分からないとは言え、デボラ・ハリーの懐の大きさに驚きを隠せなかった。
その後ブロンディは1997年に再結成。メンバーはデボラ(Vo)とクリス(G)とクレム・バーグ(dr)以外を変え、1999年には再結成後初となる新譜「マリア」をリリースし、遂に2003年再来日した。
しかし、25年ぶりのライブに私はあえて行かなかった。幻となった1982年のコンサート中止は今でも残念だし全盛期の彼らを観たかった想いは強い。私の中のデボラは伝説の初来日のまま色褪せずに鮮やかに輝きを放っている。
※2019年11月19日に掲載された記事をアップデート
2021.01.11