4トラックレコーダーで自宅録音されたという粗悪な音質。殺伐としたアメリカの荒野 ( ウィルダネス ) に伸びるハイウェイをひたすら進むかのような死のドライヴミュージック―― 異色作『ネブラスカ』には、大国アメリカが決してその臭いを消すことができない、黒々とした不安感や虚無感が亡霊のようにまとわり付いている。 シングルリリースされた「アトランティック・シティ」のミュージックヴィデオは、このタイトルとなった都市をカメラがあてどもなく彷徨うものだ。崩れゆく建物の映像に始まり、車窓から見える寂れたモーテル、人影もまばらな街角―― こうした殺伐とした風景が点描されてゆく。この雰囲気はアルバム全体を終始一貫して流れていて、殺人鬼チャーリー・スタークウェザーのことを歌ったタイトル曲「ネブラスカ」や、重大な PTSD を患ったと思しきベトナム帰還兵の弟とその兄の警官を歌った「ハイウェイ・パトロールマン」など、執拗に暗いアメリカ社会に目を向けたフォークミュージックが展開される。 今回のコラムでは、スプリングスティーンが生涯見据えてきたアメリカンドリームの「闇」の相貌について、『ネブラスカ』を手掛かりに掘り下げてみたい。とはいえ、まずはその前にスプリングスティーンが、強烈な「光」の中から現れたロックンロールの救世主というイメージを担わされていたことを思い出す必要がある。 「私はロックンロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン」 このジョン・ランダウのあまりにも有名(と同時に過酷)な誇大宣伝を、スプリングスティーンは『ボーン・イン・ザ・USA』で世界的スターに昇り詰めることによって見事達成してしまった。正に「アメリカンドリーム」の体現者である。しかしこのモンスターアルバムの直前に、『ネブラスカ』をリリースしていることは見逃せない。この強烈な「光」と「闇」のコントラストを、対立としてではなくむしろ陰と陽のような連続性・両面性で捉えないと、スプリングスティーンが追いかけ続けたアメリカの実像は見えてこない。 「ブラックなおとぎ話を作りたかったのだ」 自伝の「ネブラスカ」の章でそう語るスプリングスティーンが、本作の着想源となったものをざっとリストアップしてくれているので、これが「闇」の正体を明らかにするアリアドネの糸となってくれそうだ。 「うちの家族、ボブ・ディラン、ウディ・ガスリー、ハンク・ウィリアムズ、フラナリー・オコナーのアメリカンゴシック短編集、ジェームズ・M・ケインのノワール小説、テレンス・マリックの映画の静かなバイオレンス、チャールズ・ロートン監督のただれた寓話『狩人の夜』。それがみなおれの想像力を導いてくれた」(※注1) ジェームズ・ケインのノワール小説を挙げていることが僕などには意外だった。確かに愛と若さが夜空に向けてスパークする二つの傑作『明日なき暴走(Born to Run)』(75年)と『闇に吠える街(Darkness on the Edge of Town)』(78年)は、異様なほどに「夜」とそこからの「逃走」というテーマに取り憑かれていたが、これは彼の暗黒映画 ( フィルムノワール ) 狂いに源があったと分かる(※注2)。リストの最後に、『狩人の夜』というフランソワ・トリュフォーが絶賛したことで有名な異色ノワールも入っていることも見逃せない。 実際、『明日なき暴走』で夢見られた「夜からの逃走」や「男女の逃避行」といったテーマは、ニコラス・レイ監督の『夜の人々』やフリッツ・ラング監督の『暗黒街の弾痕』といったノワール映画で繰り返し描かれてきた、アメリカの神話原型の一つだ。その世界観をスプリングスティーンはよりロマンティックに、より美しいのものとして描いている――『ネブラスカ』にはその「闇」から逃げるのではなく、しっかり見据える覚悟が出てきているわけだが。 ところでスプリングスティーンの映画への目覚めは、『明日なき暴走』のアルバムツアーでロサンゼルスに行ったとき、マーティン・スコセッシが当時公開されていた映画『ミーン・ストリート』(73年)の上映会を彼のために開いたことに端を発するらしく(※注3)、これがバイオレントなアメリカの暗部に目を据える一つの契機となった。スプリングスティーンの諸作品がべトナム戦争の暗い影響を受け、ニューシネマ的な陰影をともなっているのはスコセッシからの学びであるともいえる。 また、リストによれば『ネブラスカ』はスプリングスティーンが当時読み漁っていたフラナリー・オコナーの短編集の影響もあるとわかる。彼が言うように「アメリカンゴシック」な雰囲気が本作には色濃い。専門的な話になるので詳述は避けるが、ゴシックとノワールは「闇」の系譜学上で重なり合う。幼少期からこのゴシック的想像力は彼の中に芽生えていたと思しく、五歳のときに交通事故で死んだ叔母ヴァージニアの肖像とその霊に関する自伝中のエピソードが端的にそれを物語る(自伝なのにまるで幽霊譚!)。 『ネブラスカ』を構成する「闇」の成分が、スプリングスティーンが咀嚼吸収してきたノワールとゴシックであったとこれまでの話から理解されたと思う。しかし問題を一歩先に進めるならば、スプリングスティーンはそもそもアメリカンミュージックの本質が「闇」であることを直観的に見抜いていたようだ。例えば以下のロックミュージックに関する発言。 「ロックからは政治的メッセージが聞こえてくる。解放のメッセージ。自由になるためのメッセージだ。おれの頭の中ではエルヴィスの声で再生されている。彼の声には自由になれという思いが込められている。エルヴィス・プレスリーでなくてもいいし、ジェリー・リー・ルイスでも、ロバート・ジョンソンでも、ハンク・ウィリアムズの声でなくてもいい。だが、彼らはアメリカの暗部を語っている (※注4)」(下線は後藤によるもの) つまりアメリカの自由や解放について歌うのは、「アメリカの暗部」について歌うことに他ならないということになる。後に『ネブラスカ』の後継的位置づけとして発表されるダークフォークアルバム『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』のタイトル曲の雰囲気が、アメリカンミュージックの根幹にあるそうした「闇」の想像力の説明となっている。それは歌詞だけで明らかだろう。 The highway is alive tonight Where it’s headed, everybody knows Sitting down here in the campfire light Waiting on the ghost of Tom Joad今夜ハイウェイは賑やかだ ハイウェイがどこに向かっているか、みんな知ってる キャンプファイアの光の中で腰を下ろして トム・ジョード(※注5)の幽霊を待っている アメリカンゴシック的というか、まるでデヴィッド・リンチの映画に出てきそうな超現実ノワールの世界である。そもそもアメリカンゴシックとは僕の考えでは「文明」と「野生」が摩擦するポイントから立ち上ってくる黒い想念で、その最たる場所が「道路」と「荒野」が隣り合っている原風景、つまりハイウェイである。だからアメリカ人は夜のハイウェイを見ると、アメリカ先住民や幽霊といったものを幻視してしまうのだろう。 ここで敢えてリンチの名前を出したのは、『マルホランド・ドライブ』で見せたように、彼が「アメリカンドリーム」の裏側を執拗に描き続けた作家であり、それはブルースもまた同じであると言いたかったからだ。オコナーを読んでアメリカンゴシックの雰囲気を学び、フィルムノワールの影響を隠さないブルースは「アメリカンドリーム」の闇をしっかりと見据え、そこを照らし出す一条の「光」にアーティストとして懸けているようだ。 ノワールの頽廃的でロマンティックな逃避行という「闇」の神話原型を引き継ぎつつも、彼には人々を「約束の地」へしっかり導こうとする「光」としての存在感が一貫してある―― だから人は彼を「ボス」と呼ぶのではないか。 前編はここまで。 後編ではテレンス・マリック『地獄の逃避行』~『ネブラスカ』~ショーン・ペン『インディアン・ランナー』という「殺人」をテーマに掲げる三作品を軸に、骨太なアメリカ精神史のなかにスプリングスティーンを位置づける作業になると思う。また、スプリングスティーンのマイナー実験音楽への嗜好も明らかにする予定。※注1: ブルース・スプリングスティーン、鈴木恵・加賀山卓朗他(訳)『ボーン・トゥ・ラン(下)―― ブルース・スプリングスティーン自伝』(早川書房、2016年)、60-61頁。 ※注2: 自伝によると、後年重いうつ病になったときでさえもフィルムノワールを観ようとしたらしい(もっと鬱になるぞブルース!)。 ※注3: ジェフ・バーガー(編)、安達眞弓(訳)『都会で聖者になるのはたいへんだ ―― ブルース・スプリングスティーン インタヴュー集1973-2012』(スペースシャワーブックス2013年)、572頁。 ※注4: 『都会で聖者になるのはたいへんだ』、367頁。 ※注5: ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』の主人公。スプリングスティーンがジョン・フォードの映画版に入れ込んでいたことは有名で、本作を観ると分かるが、ライティングや暴力表現はほとんどフィルムノワールのそれと同じ。この映画をみるとスプリングスティーンの世界観の最大のモチーフが「闇」と「民衆」であることがすぐに把握できます。
2018.10.27
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