10月21日

遊佐未森のセカンドアルバム「空耳の丘」プロデューサー外間隆史時代の始まり

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photo:SonyMusic  

遊佐未森のセカンドアルバム「空耳の丘」制作ペースが早かったワケ


昭和最後の年、63年、つまり1988年の4月1日に遊佐未森はデビューしました。デビューアルバムは『瞳水晶』。で、2ndアルバム『空耳の丘』は同じ年の10月21日発売。わずか半年後で、アルバムとしてはかなり早いペースです。デビュー前後の、お披露目ライブやら、メディアへのプロモーションやらの慌ただしい日々の中、我々は既に次のアルバムに向けた準備を進めていました。

デビューアルバムについては、特に批判的な声は入ってきませんでしたが、売れる気配もまだありませんでした。それなのに次を作り始めるなんて、今だったら許されないのでしょうか?

当時のEPICソニーは、“親分” の丸山茂雄さんが(社長ではなかったんですが、実質決定権を持っていたのは丸山さんなんで、親分です)、「アルバム3枚、がんばっていいものを作っていれば、おいしい話は向こうからやってくる」という説を唱えていたので、それが暗黙のルールみたいになっていました。実際、遊佐3rdアルバムがオリコン4位と売れ、EPIC史上売上第1位のドリカムもアルバム3作目で1位になりましたから、その丸山理論、少なくともその時代は正しかったと言えます。

アルバム1枚にかかる制作費は?


それにしても、その頃は1アルバム、制作費に最低でも1500万円くらいはかかっていたので、数千万円までなら投資を許すと言っていたのと同じ、なんとも太っ腹でオプティミスティックでした。

ともかく親分がそうやってどっしり構えていてくれると、子分どももじっくりと仕事ができます。最初から売れるか売れないかあくせく気にしながら作るより、たぶんいいものが作れると思うのです。

とは言え私など、遊佐はなんとか売れたものの、それ以外では、ちゃんとお金をかけさせてもらいながらも、あまりいい結果を出せてないので、もし私みたいな制作ディレクターばかりだったら、きっと会社は傾き、丸山理論も泥にまみれていたかもしれません…。

ただ、そんな私が生意気にも当時も今も考えているのは、「メジャーレコード会社はちゃんとお金も人もかけていい音楽を世の中に提供しなければならない」ってことです。たとえすぐに売れなくても、一度生まれでた音源は、それを支持する人がいれば、ずっと生き延びていきます。逆に、私の好きなあの作品が、もしもこの世に存在しないとしたら、それはとても悲しい。

近頃、ベテラン音楽業界人による「昔はよかった」的発言をよく見ます(私もか(^^;))。それだけならいいのですが、翻って今を批判することも多く、それは好きじゃない。たぶん今の実情なんて知らないで言っているように思えます。私も今の音楽業界の現場はよく分かりませんが、だから、簡単にダメだとは言えません。

でも先ほどの「メジャーレコード会社は…」ということだけは強くそう思っています。もうメジャーにもお金がないというのなら、頭をひねって工夫して、いい音楽を作り続けてほしいと思います。

プロデュースは外間隆史、参加ミュージシャンも粒ぞろい


話がアサッテの方向に進んでしまいました。

遊佐未森の2ndアルバム『空耳の丘』です。

外間隆史くんの天才に気づく前から制作に入っていた1stでは、アレンジの成田忍くん、ミックスエンジニアの飯尾芳史くんらも私がセッティングしましたが、2nd からは完全に外間くんに主導権を渡し、私はフォロー&ツッコミ役に回りました。

シンセサイザーやプログラミングを担当してくれた遠山淳くんは外間くんの高校からの友人。“ポータブルロック”や“ヤプーズ”にいたベースの中原信雄くんは、外間くんと共に“Films”に在籍した仲。“レベッカ”の2代目ギタリストとして活躍し、やがて“フェビアン”でデビューする古賀森男くんは外間くんの大学の友人… と、新たに参加してくれた有能なミュージシャンたちはいずれも“外間人脈”でした。ドラマーの青山純は、トップランクのスタジオミュージシャンでしたし、私も何度もお世話になっていましたが、彼と中原くんはたしか中学の同級生という個人的なつながりもありました。彼のことを「青山」と呼ぶのは、私が知る限り中原くんだけです(^^)。

ミキシングエンジニアはナイジェル・ウォーカー


そんなわけで、2ndでのスタッフィングで私が決めたのは、ミキシングエンジニアのナイジェル・ウォーカー(Nigel Walker)くらい。ナイジェルについては土屋昌巳さんについてのコラム『あこがれの存在、近寄り難きアーティスト=土屋昌巳に近寄ってみた』や、『土屋昌巳のロンドン録音、ジョージ・マーティンやらミック・カーンやら』で少し触れました。

ナイジェルはロンドンのAIR Studiosが本拠地だったので、通常はAIRを使うのですが、この時はWestside Studiosという、ハイドパークの近くにあったスタジオでやりました。

AIRは“214 Oxford Street”という、日本で言えば銀座四丁目みたいな場所にあったのですが、やがてハムステッドという郊外に移転します。ひょっとしたらこの時期は、その移転のために閉じていたのかなとも思いましたが、調べると移転は1991年のようで、まだ早い。単純にスケジュールが空いてなかったのでしょう。

で、土屋さんの仕事で知り合ったこのナイジェル、少々変わり者なんだけど、とてもいい音を作ってくれるし、私とは妙にウマが合ったのですが、外間くんとは… あまり合わなかったみたい。変わり者同士は、合うか合わないか、二つに一つですな。

『遊佐未森ヒストリー:「空耳の丘」レコーディング・エンジニア物語』につづく…


※2019年4月15日に掲載された記事をアップデート

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2021.09.22
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カタリベ
1954年生まれ
ふくおかとも彦
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