1988年10月にニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック(以下ニューキッズ)の日本でのデビューアルバム『NEW KIDS, ストリート・タフ宣言(Hangin' Tough)』が発売されました。 私は直接の担当ではなくチームのまとめ役として、このグループと関わっていきます。ブレイクまでの数年間、人的かつ時間的エネルギー、そして宣伝費的にも長期間の継続的な投下が続きました。 このアーティストは83年にニュー・エディションを成功させたモーリス・スターがその白人版のグループをつくろうと、オーディションで集めた少年達です。デビューは86年、レーベルは CBS でしたが我々もその存在すら気づきませんでした。88年春に米国でセカンドアルバムが発売され、最初のシングルがビルボードチャートをじわじわと上がり、7月末で46位。ここで初めて彼らを認識しました。つまり、CBSソニーではこの7月の動きがあったからこそ、社内の編成会議を経て10月のアルバムリリースとなったのです(この『ストリート・タフ宣言』はニューキッズの日本でのデビューアルバムですが、実際はセカンドにあたります)。 随分長い間、登場していなかった白人のボーイズグループです。60年代のパートリッジ・ファミリー、オズモンズ、そしてモンキーズ以来、アメリカ産の白人アイドルグループは皆無でした。これが何を意味するかと言うと、そこにはライバルがいないわけですから彼等を当てる事さえできれば、洋楽アイドルマーケットを独占できるという事ですね。 日本には昔も今もジャニーズというモンスターがいます。当時は 光GENJI の全盛期でしたがマーケットは違います。ターゲットのイメージは、ちょっと欧米志向が強く、例えば “SONY PLAZA” に集う女子高校生。もし彼女たちを夢中にさせる事ができれば大ブレイク間違いなしと信じていました。 海外モノは、こちらで事を起こす前に、本国で大きな話題があれば楽なものもありますが、シングルチャートが46位ではスペックとしては弱い。しかも彼らのファーストアルバムは全く売れていません。ただ期待していてもダメならば、アメリカを意識することなく日本型マーケティングで進めよう。こちらの担当者は20代前半の若い女性。彼女の感性を生かしジャケットを日本向きに差し替えるとか、アーティスト名のロゴタイプを可愛くするとか、難易度は上がりますが、そういう方向性で行こうと考えていました。 そんな折に全米でのチャートアクションに大きな変化が現れました。一旦下がっていたランキングが、跳ねるように急激に上向いたのです! その結果、日本発売の10月頃には10位まで上がっていました。あれれ… といった感じ。これは嬉しい戸惑いでした。 当時、影響力があった『ベストヒットUSA』や『MTV』では、アメリカからの情報を直接伝えていましたし、海外のアーティスト情報は大量に入ってきます。流通面でも外資系の CDショップ や輸入盤店などが増え、ユーザーもそうした情報に直に触れる時代になりつつありました。 大げさな言い方ですが、情報の蛇口は我々が握っています。それまで洋楽の海外事情に関しては完全にレコード会社がコントロールしていました。言ってみれば我々は「出島」みたいなものです。これが日本型マーケティングを可能にしていたのです。しかし、10位とは言えヒットシングルが登場したとなれば、再度方針を変えざるを得ません。つまりは「アメリカのヒットアーティストでございます」という王道で攻めざるを得なくなったということです。 ニューキッズが日本の女子高校生達にどう思われたかは分かりませんが、アルバムジャケットは、いかにも東海岸のストリート系というオリジナルのままでしたし、シングル曲も分かり易い英語で、そのまま「プリーズ・ドント・ゴー・ガール」でした。 ―― 王道で攻めるとは言っても、本国アメリカで、この曲のみ当たっているだけです。まだまだ本物感はつきません。ターゲットは “洋楽志向の女子高校生” というマーケティングには変わりありませんが、ここから苦闘が始まります。 まずは発売直後の11月に最初の動きです。 短い期間でしたが、彼らをプロモーション来日させました。もちろんグラビア系音楽専門誌を中心に、女子を意識したメディアでの露出が目的です。そして、この時マネージメントから、世界で唯一、熱狂的なエリアがあることを知らされました。 そこは米本土ではなくハワイでした。日本に来る前にホノルルでライブを行い、それはもう「超」がつく程のすごい騒ぎであったそうです。ニューキッズは年末にそのアンコールライブで再びハワイを訪問するとの事。ロスアンゼルスやニューヨークではありませんが、待ちに待ったブレイク情報です。ジャーナリスト2名と地方の有力 TV を伴いハワイ取材を行います。これが2回目の動きですね。 空港でニューキッズを出迎えるファンの狂乱ぶりからライブに至るまで、確かにそれはベイ・シティ・ローラーズ以来、久しぶりに見る光景でした。日本でもスポーツ新聞全紙に掲載され、翌朝のワイド番組でも報じられています。 そして、それとほぼ同じ頃、なんと! 彼らのセカンドシングルが全米チャート3位にランクインしたのです。一つのアルバムから10位と3位のヒット曲が生まれました。とは言え、アメリカでも日本でもブレイクと呼ぶには程遠く、まだ何も起きていません。アルバムが少し売れたくらいでしょうか。 年末のハワイ取材に続き、さらに海外取材は続きます。年が明けて89年2月、TV 番組の企画を継続し、彼らの出身地であるボストンで自宅密着取材を行いました。写真や映像素材を確保し、ターゲットに向けての露出も続けます。これが3回目の動きとなりましたが、それでも日本、アメリカ共に残念ながら状況は然程変わっていません。 そして、4回目にいよいよ大きな動きがやってきます。それは89年4月、昨秋に続く2回目のニューキッズのプロモーション来日でした。メディア露出量もスケールアップし、大々的なファンイベントも実施、営業部隊も主要ディーラーさんまで呼び込んで準備万端で行いました。もちろん、アルバムはそれなりに売れ始めていましたが、まだまだブレイクしたと言える状況ではありません。こうなると後はもう意地だけです。 ただ本国アメリカでは、いよいよ様子が変わってきていました。日本から帰国した直後の第3弾シングル「ラヴィング・ユー(I'll Be Loving You)」が全米No.1を獲得したのです。1枚のアルバムから10位、3位、そして1位と3連続シングルヒットを放ったという事になります。 これは有名な話ですが、この時、彼らはティファニーの前座でツアー中でした。この突然のブレイクによって、ヘッドライナーが入れ替わっています。長い期間、抑圧されていたマグマは一気に噴き出し、火山の大爆発が起きました。まさにブレイクスルーです。ティファニーを前座にして熱狂的なソールドアウト・ツアーが始まりました。こうなると我々も待ってましたと、アメリカでの大騒動ぶりを報道型で伝えるだけです。 ここで、さらに5回目の動きになりますが、ネブラスカまで乗り込んでライブ取材を実施―― 熱狂し泣き叫ぶファンの表情を軸に「超常現象さながら」とレポートしたり、やれることは全てやりました。アメリカのタイミングに合せてシングルカットも行っています。それでもなぜか日本ではあまり大きな動きにつながりません。何がどうしてだか、全く分からない。文化がまるで違う音楽を売ろうとしているわけではないのに…。 一方、アメリカでは、すでに売り上げが数百万枚の域に達しイギリスでも大ブレイク! しかし、世界各国に先駆けてプライオリティとしてピックアップした我々だけが、売り上げ的に置いてきぼりくらい、世界2位の市場を誇る日本としては極めて悔しい結果になっていました。もはやひたすら最後まで意地を通す以外ありません。 途中、国内では彼らのファーストアルバムやクリスマスの企画アルバムを発売しています。商品的にも新譜を投入しましたが、この時点ではコアマーケットの中だけで動いていたに過ぎず、新しいファンを獲得していたわけではありませんでした。 ―― もちろん90年に入ってからも、日本のファンを開拓するために海外取材は続いていました。この時、すでに超売れっ子になっていた彼等、日本向けの取材時間の確保もままなりません。長期化したベトナム戦争のような泥沼の様相です。 結論を言うと、ニューキッズの日本でのブレイクはサードアルバム『ステップ・バイ・ステップ』まで待たねばなりませんでした。このアルバムは、楽曲も素晴らしかったし、当然ながら私たちも全力投球。これで新しいファンを巻き込んで、やっとブレイクです。50万枚近いセールスを記録し、後に東京ドーム公演も行いました。 それにしても、ここまで来るのにどれだけの労力と宣伝費をかけてきたことでしょう。『ステップ・バイ・ステップ』発売に向け2年かけて完璧な準備をしていた。だから、彼らを日本でブレイクさせることができた。今はそう思うだけです。アイドルを売り出すのには、お金と同様にとてつもなく体力が必要ですし、ロックバンドでもない限りは、特に TV マーケティングをフル稼働させる必要があるという事でした。 モノが売れるにはタイミングというものがあります。そもそも、そこを逸していたということを、私は身をもって学んだのです。
2018.10.24
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YouTube / New Kids on the Block
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