5月14日

みんなの洋楽ナイト — 雑多な音楽を吸収し続けたクラッシュの音楽的深化

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photo:SonyMusic  

『Golden 80’s vol.2 – みんなの洋楽ナイト』にちなみ、僕が、80年代に最も影響を受け、今も寄り添っているバンドをひとつ挙げるとしたら、それはザ・クラッシュ(以下クラッシュ)に他ならない。

今回は、クラッシュの名をアメリカ全土に知らしめ、パンク愛好家以外にも人気の高い『コンバット・ロック』(82年)を手に入れた当時を述懐してみたい。

確か83年の秋ぐらいだっただろうか。中学3年生の僕は、青山一丁目駅に隣接する青山ツインタワービルにあった EPICソニーの宣伝部を訪れた。目的は、この年にデビューした大阪出身のパンカビリーバンド、※ザ・バッツ(THE BOTS)の宣伝会議に出席するためだった。

宣伝会議と言っても、そんなに大それたものではないが、どうしたらザ・バッツが売れるかという意見をファン目線で聞きたかったというのが宣伝部の思惑だった。パソコンもネットも普及していなかった時代、レコード会社が、ファンのナマの声を聞くには、このような手段しかなかったのだろう。どういう経緯でその場所に行くことになったのかは忘れてしまったが、僕は、後に高校生になってバンドを組む中学の同級生3人と一緒だった。

真っ白い大きなテーブルが鎮座した会議室へ通されると、そこには、僕ら以外にロンドン直系のファッションにラバーソウルやウエスタンブーツを履き、とにかくおしゃれなお姉さま方4人が座っていた。年齢は僕らより4つ5つ上だろうか。83年当時、ロカビリーは最先端でファンは本当に垢抜けていてお洒落だった。

会議の途中、ザ・バッツの他に好きなバンドは? などという話になり、彼女たちは口々にザ・ロカッツ、スペシャルズ、パール・ハーバー(当時、クラッシュのポール・シムノンの恋人で、82年のクラッシュ来日時にはゲストとしてステージに登ったロカビリーシンガー)そして、クラッシュの名を挙げていた。

その時、クラッシュ以外の名前は僕にとってはチンプンカンプンだった。それから数年経つと、この時お姉さんたちが口にしていたバンドに僕も夢中になり、現在に至るまで聴き続けることになるのだが…。

この宣伝会議の帰りに謝礼として、EPICソニーのアーティストの LP を一枚くれると言われた。僕は間髪入れず、当時クラッシュの最新アルバムだった『コンバット・ロック』をお願いした。

しかし、家に帰りレコードに針を落としてみると、そこには僕の知っているラウドで直情的で粗削りで、直球ど真ん中のロックンロールを放出しているクラッシュは何処にもいなかった。強いて言うならば、1曲目の「権利主張(Know Your Rights)」からのみ、ジョー・ストラマーがテレキャスターを掻きむしるように弾く姿を想像できたぐらいだ。

無論、中学生だった僕には、新たにファンク、ヒップホップなどを消化し、音楽の多様性を極めたクラッシュの本質を知る由もなかった。ただ、いま改めて考えてみるとクラッシュの音楽的深化を知り、彼らがルーツとした音楽を吸収できたことは大きかった。これは80年代に洋楽を聴いてきた中で一番の収穫だった。

彼らが79年末にリリースした傑作『ロンドン・コーリング』以降は、雑多な音楽を吸収し、このアルバムの帯にもあった「パンクとは音楽スタイルを示さない」というジョー・ストラマーの言葉通りの変革を遂げていく。

そんな彼らのアティテュードそのままに、レベルミュージックに相応しいミクスチャー要素を兼ね備えた名曲を挙げてみると――

1980年にリリースされた3枚組の問題作『サンディニスタ!』のA面1曲目、白人として、最も早くファンク、ヒップホップの要素を取り入れた「7人の偉人(The Magnificent Seven)」。

同じく同アルバムに収録され、モータウンビートを下敷きとした「ヒッツヴィル U.K.」。これは、当時ミック・ジョーンズの恋人とされたエレン・フォーリーとミックのデュエットソングであり、「7人の偉人」に続きシングルカットされたものだ。

さらに、黒人音楽に対する解釈から、よりヒップホップに寄り添った「ディス・イズ・レディオ・クラッシュ」(81年)。

また『コンバット・ロック』(82年)からは、全米8位を記録し、彼ら最大のヒットとなった「ロック・ザ・カスバ」。こちらは黒人音楽に精通するドラムス、トッパー・ヒードンが手掛けた究極のディスコクラシック。

―― と、まあこんなところだろう。

今回の DJイベント『Golden 80’s vol.2 – みんなの洋楽ナイト』では、クラッシュ周辺のポストパンク期の UKバンドの曲も交えつつ、クラッシュの音楽的深化に触れていくつもりだ。

ロックンロールの初期衝動であったパンクロックがアーリー80’s にどのような変革を遂げ、成熟していったのかを伝えられたら幸いだ。


※脚注
ザ・バッツについては、カタリベ、ロニー田中さんの『1982年の鹿鳴館、原宿「ピテカントロプス・エレクトス」誕生秘話』をご覧下さい。


2018.11.02
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