近頃は SNS の普及にあやかって、僕もツイッターやインスタグラムを通じて、いろいろな出会いがあった。そこで仲良くさせてもらっている人もたくさんいる。いわゆる、ツイ友からリア友になっていった人たちだ。 そんな人たちと初めて対面する瞬間、なんていうのか、あの得難い瞬間―― はじめはお互いぎこちない笑顔と挨拶から始まり、共通する経験や音楽の話をきっかけに、言葉は口から泉のように溢れてくる。お互いがもう何十年来かの友達のような笑顔になるまで、1時間とかからなかったりする。何度か経験したそんな時間の流れ、どこかで感じたことがあったぞ。いつのことだったろう…。 SNS はおろか、携帯やパソコンの普及もまだまだ先だった80年代。そんな同じ趣味や価値観を持った人と知り合う手段は音楽雑誌の読者ページだった。「売ります、買います」や「バンドメンバー募集」「お手紙ください」など雑誌を通じて読者同士がコミュニケーションできる文通欄がどの雑誌にもあったように思う。 僕が愛読していた音楽雑誌『DOLL』や『FOOL'S MATE』にもそんな文通コーナーがあり、雑誌を通じてたった一度だけ、仲良くなって実際に会った女のコがいた。それは、梅雨明けの青空が広がるこんな季節。ラフィンノーズがメジャーデビューした翌年だったと記憶しているから86年だろう。当時、僕は高校3年生だった。 「当方17歳女性。ラフィンノーズやコブラ、初期パンクが好き。色々なパンクバンドのライブ音源を集めるのが趣味です。ファッションパンクス不可。」 確か『DOLL』に載っていたそんな文面だったと思う。自分がファッションパンクスかどうかという不安もあったが、何気なしに手紙を送って僕らは仲良くなった―― ラフィンノーズやブレイク前の BOØWY などのレアなライブ音源が入ったカセットテープを彼女は頻繁に送ってくれた。一方、僕は DJ 気取りで自分のレコードコレクションの中から、彼女のために初期パンクを中心とした選曲で作ったオムニバスのカセットを送っていた。 そんな他愛もない物々交換のやりとりが続き、実際会ってみようってことになった。確か彼女は小田急線沿線の町田から、さらに奥まった神奈川県の地方都市在住だったので、小田急線の新宿西口改札で待ち合わせすることになった。彼女はガーゼシャツにチェックのミニスカート、僕は、夏がはじまるというのに一張羅の革ジャンを着ていくことになった。 「これならすぐにわかるねっ」 そんな手紙のやり取りから一週間後ぐらいだろうか。夏のはじまりの陽射しが輝いた午後、約束の場所に行った。 僕が改札を見渡すと彼女はすでに来ていた。ピストルズの “GOD SAVE THE QUEEN” のイラストが入ったガーゼシャツ。あのエリザベス女王のイラスト中で、か細い身体が泳いでいた。そして、チェックのミニスカート。長めの前髪がかぶさった黒目がちの瞳が戸惑いと不安を含みながら、はにかんでいるように見えた。手紙のやりとりで想像していた通りの女のコだったが、ただひとつ予想外のことがあった。それは、彼女が車椅子に乗っていたこと。 「想像と違っていたでしょ。ゴメンね…」 挨拶もそこそこに、そんな言葉を投げかけられて僕は言葉を返せなかった。返せない代わりに無言で車椅子を押した。 晴れ渡る新宿西口の空、しばらく二人は無言で、僕は車椅子を押した。革ジャンの下に着たTシャツが汗でじんわりと背中に張り付く。ダイエースプレーで立てた髪が額に垂れていく。慣れないゆっくりとした歩幅とは裏腹に、頭の中では、ラフィンノーズの疾走感溢れるパンクロックが鳴り響いていた。 醒めてる訳じゃないのさ ANY TIME 俺らの世代 (NEVER MIND NEVER MIND…) 関係ないぜ 奴ら云う俺らの世界 OUT SIDE ゴミ屑でしかない (GET AWAY GET AWAY…) 酷い時代だぜ 今考えると完全に青臭い自意識だったのかもしれない。温かいのか、憐憫の情なのか、物珍しさなのか、市井の人々の視線が僕らに突き刺さるように感じた。 しかし、それは決して痛いものではなかった。なんだろう。ヒリヒリとした感触は夏の太陽よりも熱かった。自分の道をしっかり生きなきゃって思った。今ここに自分が立っているという意味を生まれて初めて実感できた時間だった。僕はその時、ホンモノのパンクスになれたと思った。もうファッションパンクじゃないと思った。 やっとの思いで入れる喫茶店を探し、僕らはたくさん話をした。彼女が不慮の事故から15歳で車椅子が必要となったこと。実は僕が来るまでお母さんが雑踏の中で見守っていたということ。ライブに行けないかわりにライブ音源のカセットを集めているということ。メジャーデビューしたラフィンノーズのこと。 「ゲット・ザ・グローリーはインディの頃のテイクの方がカッコよかったね」 ―― なんて笑いあった。お互いの言葉は口から泉のように溢れ、彼女のぎこちない笑顔が屈託のない微笑みに変わるまで、さほどの時間はかからなかった。ああ、この瞬間なんだよ。これが今も続いているんだなと改めて実感した。 そんな会話の途中、彼女は「本田君ならわかってくれると思った。やっぱりそうだった」と嬉しそうに言っていた。何がわかってくれるのか、何がやっぱりそうなのか、その根拠は当時も今も、はっきりとは分からない。でも、この言葉は、今も僕の心の中にある勲章だ。なんとなく始まった文通がパンクロックを通じて、今も忘れられない思い出になったことだけは確かだ。 そして、当時は考えてもみなかったが、バリアフリーが現在ほど普及していない80年代、不安と困難の中、僕を信じて長い時間電車に乗って会いに来てくれた彼女の冒険に頭が下がる思いだ。 僕らが世間に胸を張れる瞬間。それは、頭の中でパンクロックが鳴り響いている時だってこと。革ジャンが汗ばむ新宿西口の真っ青な空の元、18歳の僕は、パンクロックは優しいなって心の底から思っていた。歌詞引用: BROKEN GENERATION / ラフィンノーズ
2018.07.24
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