9月5日

The Good-Bye 曾我泰久インタビュー ② 野村義男などバンドメンバーの素顔は?

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『The Good-Bye 曾我泰久インタビュー ① ジャニーズという事務所でのバンド活動!』からのつづき

普遍的なポピュラーミュージックをやっていたグッバイは古くならない


― 先日行われた、曾我さんとプロデューサーだった川原伸司さんのイベント(『祝!CD再プレス!素晴らしきThe Good-Byeの世界!』@渋谷LOFT HEAVEN)で、すごく印象に残っているのが、「The Good-Bye(以下グッバイ)は、新しい音楽をやっているというバンドではなかった。普遍的なポピュラーミュージックを再現している。だから古くはならない」という川原さんのコメントでした。それは、ビートルズが古くならないのと一緒でグッバイも古くならない。当時から、そういうことを考えていましたか?

曾我:いや、考えてはいないです。ただ、大瀧詠一さんの「流行を追ったらビリになるよ」という言葉には共感していて、売れたいというよりも、自分たちがやりたいこと、表現したいことをやりたいという気持ちが強かった。バンドなので、アルバムの四隅、A面の1曲目、A面のラスト、B面の1曲目、B面のラストを誰が押さえるかが競争でした。だから、アルバム全体を象徴するようなA面の1曲目を作りたいという気持ちがみんな大きかった。外に向けてというより、バンドの中での勝負だったと思います。もちろん、表に向けて「これ聴いて」というのも大切ですが、アルバム制作は、自分が「これ最高!」と思えるものを作っていきました。



― 4人の音楽性は一致していましたか?

曾我:その辺のバランスを上手くとってくれたのが川原さんだと思います。最初の頃は僕と川原さんでバンド全体のバランスを考えていきました。途中3枚目、4枚目ぐらいから野村義男君、加賀八郎君も自分の個性を分かりやすく打ち出した曲を作るようになりました。そういうのをメンバーみんなでブラッシュアップしてアルバムに収めていく。そういう風にやっていたので、1枚目から9枚目まで聴いてもらうとメンバーそれぞれの成長もバンドの成長も手に取るように分かる。だからグッバイは面白いのかなとも思います。

― アルバムごとの深化も、初期のアルバムが初々しく、キャッチーなのもビートルズに似ているなと感じます。そこにハードロックテイストやパワーポップ的な解釈などもあって、メンバーが聴いていた音楽が増えるごとにアルバムが深くなっていくという、ロックバンドのあるべき姿が感じられました。

曾我:そうですね。川原さんと出会って、毎晩川原さんの家に遊びに行って、曲を作って、レコードを聴いて…。とにかく色々な音楽を教えてくれて。南青山にパイド・パイパー・ハウスというレコード店があって、ここに行って、店内でかかっている曲を「この曲誰ですか?」とか訊きながらレコードを買っていました。そうやって昔の音楽を掘り返していって、吸収していって。多分、僕が掘り下げた音楽、野村義男君が掘り下げた音楽、加賀八郎君が掘り下げた音楽というのは全然違っていた。僕はビートルズがメインの掘り下げ方で、義男はヴァン・ヘイレンであったり、そこからクリームやジミヘンに行ったりとか。加賀君はアメリカンロックでした。

― ブリティッシュとアメリカン。そこはグッバイの演奏にも出ていましたよね。加賀さんはアメリカンのカラッとした感じが好きなんだな、というのが分かりました。野村さんは本当にハードロック少年だな、とか。でも、取材される雑誌が決まっていると、そういう話はなかなかできないですよね。

曾我:そうなんですよ。ただ、取材してくださる記者の方は音楽好きが多いので、色々な情報を教えてもらいました。みなさん世代的には上なので、60年代の良い音楽をたくさん知っていて。

― すると、業界の中でグッバイの音楽性に気づいていた人がいっぱいいたと。

曾我:そうですね。「面白いことやってるね!」って応援してくれていました。

川原伸司とのコンビネーション。グッバイの音は誰も真似できない


― そんな中で、レコーディングの時、当時、夜中までビクタースタジオに残っていたのは、いつもグッバイとサザンだったとか。

曾我:夜通しやって明るくなったら、一回ここで終わろうとなって、その日に録音した音源をカセットに入れて、車で聴きながら家に帰るというのが毎日の生活でしたね。それで、次の日は朝早い仕事は入れずに、お昼過ぎにテレビ局に入るという毎日でした。

― ジャニーズ事務所も理解してくれていたのですね。

曾我:ジャニーさんが結成当時、僕にリーダーをやれと言った時点で僕に一任してくれていたと思います。僕がやりたいと思ったことは、その通りにやらせてもらえたし。

― その中でシングルは売れる曲を作らなくてはいけない… などの苦悩はありましたか?

曾我:悩みというよりも、それもひとつの勉強で、フックは大事と今も思っていますので。それに加え、どういう風にしたら予定調和にならないかというのも考えていました。売れる、売れないが分かるなら、誰もがヒットしていると思うんですね。それよりも、自分が、「いい曲作れたな」ぐらいに思えるものを常に出していかなくてはいけないと思っています。僕は職業作家ではないので、その時、その時で自分が作りたいもの、表現したいものを作っていくだけだから。そこに川原さんがいて、曲をブラッシュアップしてくれたりとか、曲の方向性をグッと変えてくれたりとか。だから、本当にプロデューサーですよね。

― 川原さんがいなかったら、全く別の作品になると。

曾我:なりますね。だからグッバイの10枚目のアルバムも僕と野村義男君とでやっていたら全然違う作品になっていたと思います。質的にも落ちているような気がします。川原さんには、「これでいいでしょ?」というのを何度も、何度も、覆されて作り直しをしていますので。「これでいいんじゃない」というさらに先まで作り直しをしているので。だから自分のソロの時も何度もぶっ壊していかなくてはいけないと思うようになりました。そういうやり方を川原さんがやってきてくれたので、グッバイも誰にも真似できない音になったのだと思います。
コード進行のコードひとつを変える、変えないで、川原さんと言い合いになってスタジオが止まったこともありますし。「そのコードを変えないのだったら、この曲は要らない」と子供みたいなことを言い出して(笑)。

― 新曲としてリリースした時は気づかなかったけど、何年も経って、名曲として評価されるのは、そういう部分があってこそなんだと思います。

曾我:ひと手間掛けるか掛けないか… というのは、自分たちにしか分からないことですが、掛けているかいないかで、「自分たちは、こんなことやっていたんだ」後になって分かるんですよね。ここまでよくやったな…、みたいに。
ベースの加賀君も、放っておいたら泥臭いアメリカンロックになりがちですが、そこにアカデミックなエッセンスを入れる川原さんの感性で、一見イビツですが、年数経って「なるほどね!」と思える作品になるんですよね。

― イビツというか混沌というか、優れたロックには、そういう側面がありますよね。それをグッバイには強く感じます。アートロック的な解釈があったり、サイケデリックであったり。だから、川原さんがいることの化学変化ですね。 バンドはジョージ・マーティン然り、フィル・スペクター然り、プロデューサーの存在はミュージシャンの刺激になるし。

曾我:僕は、川原さんしか出会っていないのですが、でも、ジョージ・マーティンのように作品をブラッシュアップしてくれる人はなかなかいないようにも思えます。川原さんはビートルズ、ビーチボーイズがメインで好きな音楽で、加賀君の好きなアメリカンロックは自分の守備範囲ではないと。

― 川原さんは、洗練されている音楽がお好きなんですね。

曾我:そうですね。だから僕は川原さん直系のそういう音楽で、90点以上取らなくてはいけないという状況でした。他のメンバーは、それぞれの個性の中にイビツなものを入れて、それぞれの音楽性がより深まっていく。そういう個性が集まって聴き手に飽きさせない音楽を作っていきました。

― それで、鍵盤やサックスを入れたりしたのですね。

曾我:グッバイはギターバンドなのに、ピアノの占める割合が多いんですよ。ブラスもストリングスも超一流の人が参加してくれましたし。

― グッバイがデビューした1983年当時は、プロデューサーが全面に出るという発想があまりなかったですよね。でも、メンバーのひとりとして川原さんがいたという認識が強いですよね。

曾我:川原さんは全体を俯瞰していました。リーダーみたいなものですよね。僕よりひと回り上なので、とにかく色々な知識が豊富なので、自分がやってみたかったこともグッバイを通して表現していったと思います。僕も川原さんと組んで「なるほどね」ということを教えてもらっていたし、逆に川原さんがやりたいことも理解していった。そこで、「すごいな! こんな面白いことがあるんだ」という共通の認識で進めていけたと思います。

― そこは、曾我さんが今まで音楽を続けてきたバックボーンになっていますよね。

曾我:そうですね。ありがたいことにジャニーズ事務所でギターを無理矢理やらされたんですが、それをきっかけに曲を作るようになったし、自分でレコーディングすることにもなった。グッバイの7年間というものが、とにかく好きにやらせてもらっていました。ディレクションだとか、コーラスの重ね方、スタジオを円滑に進める方法なんかも川原さんに教えてもらいました。途中からは、川原さんはスタジオに来なくなりましたから。



― それは、いつぐらいからですか?

曾我:真ん中ぐらいからですかね。4枚目、5枚目ぐらい。スタジオは僕がうまく回していくような感じで。

リーダー曾我泰久が語るメンバーの個性とエピソード


― 曾我さんから見て、野村さん、加賀さん、衛藤さんは、どんなタイプのミュージシャンですか?

曾我:みんな素直です。バンド内でぶつかり合ったことは一度もないですね。僕が「こうした方がいいんじゃない?」というアイディアを出すと、みんな従ってくれるし。だからエゴがぶつかり合ったことは一度もないです。

― 逆に信頼されていたということですね。

曾我:当時、僕はすごく尖っていたので(笑)。だから、なかなかモノを言えなかったというのもあったかも。一言言えば100個ぐらい返ってくるみたいな(笑)。

― そこまで真剣だったということですよね。

曾我:そうなんです。当時は自分に厳しい分、他人にも厳しくなっていたんですね。お酒も飲まなかったし。他のメンバーは飲みに行っていました。だから「お酒を飲む暇があるならいい曲書けよ!」って平気で言っていましたから(笑)。

― 音楽だけの生活だったと。

曾我:そうですね。それが楽しくて仕方がなかった。やらなくちゃいけないし、やれることが楽しかったし。

― 素晴らしい環境だったと思います。

曾我:自分がやりたいことを表現して形にすることが出来たので、それは楽しいですよね。

― 自分の好きな音楽を納得のいくクオリティに仕上げていく中で「もっと売れなくてはダメだろう」みたいな部分もありましたか?

曾我:それは常にありましたね。当時のメインはシングルだったので、シングルリリースの時は「売れる曲を書かなくては」というプレッシャーはありました。

― メンバー4人のバランスも良かったですよね。

曾我:そうですね。加賀八郎君と衛藤浩一君が元々ジャニーズにいたタレントで、踊りも踊れるような子だったら、あのグッバイではなかったと思います。結成当時から、二人ともある程度のレベルまで来ていたミュージシャンなので。当たり前ですけど、ジャニーズと言いながらジャニーズっぽさが全くない二人なので、良い意味でバランスが良かったと思います。

― お二人はオーディションですか?

曾我:“ヨッちゃんバンド”(グッバイの前身)で何度もオーディションをやったのですが、結局 “この人!” という人には出会えなくて…。と言いながらもデビューの日が近づいてきてしまって…。
衛藤君は九州のヤマハから、こういう人材がいるという話がビクター側に入ってきて。それで上京してもらいました。その時は、ずっとチューニングしていて。それを見た義男は「チューニングにこんな時間をかけるなんてすごい人だな」って思ったらしいのですが、本人は恥ずかしくて、前を向けなくて、ずっとチューニングをしていたという話でした(笑)。
ちょうどその頃、たのきん映画で『嵐を呼ぶ男』の撮影があって。それで、ジャニーさんがいきなり衛藤君に「来週からハワイ行ってくれる?」と切り出して(笑)。バンドのメンバー役に衛藤君を指名したんです。ジャニーさんはいつもそういう人だから。でも衛藤君は全くそういう経験がないのでビビってしまい、九州に帰っちゃったんです。
九州から出てくる時は、九州の先輩たちに、「アイドルやるために音楽やっているのか」みたいなことを散々言われて…。それでおずおずと帰ったら、その先輩たちに「何で帰ってきたんだ! そんな勿体ない話はないだろ」と言われたらしく(笑)。それで思い留まってグッバイに入るのですが、タイミングを逃したので彼は、『嵐を呼ぶ男』には出ていないんです。

― 野村さんはどのようなタイプでしたか。

曾我:僕の中では、すごく大人しい印象がありました。合宿所でギターの練習をする時に、彼にコードカッティングしてもらって、スケールの練習をしていたんです。今でこそ、すごいギタリストですが、最初はそんなに弾けなかったかな。すごく引っ込み思案でしたね。

― それで、サードシングルからレノン=マッカートニーのように、ソングライティングには、野村義男=曽我泰久(当時)というクレジットが並ぶわけですよね。そのコンビネーションはいかがでしたか?

曾我:義男は独特な詞を書くし、詞を書くのが得意というか、早かったですね。パッと書けてしまう。言葉遊びも上手だし。
当時は、義男が定時制の高校へ行っていて、昼間からレコーディングの時は、義男が学校へ行く時間は休憩時間にしていたんです。それで、義男が戻ってくると、「詞が出来たよ」って持ってくるから、そこで歌入れをしました。

― グッバイはメロディが先ですよね。

曾我:全曲メロディが先です。

― そこに野村さんの独特な歌詞を重ねて、グッバイの世界が出来上がるということですね。

曾我:嬉しいことに、最近、義男が「デモテープから歌詞が聴こえる」って言ってくれるんです。これまでにいろんな人の詞を書いたけどヤッチンが録ったデモテープからは詞が聴こえてくると。やはり長年の付き合いだと思います。

― 長年の付き合いでもあるし、コンビネーションの良さですよね。野村さんしか言えない言葉だと思います。

曾我:義男はすごくナイーブな性格です。その反動でおちゃらけたりもしますが、本当に心を開くまでにすごく時間がかかるんです。だけど、今となっては、こんなに長い付き合いになってしまいました。

(取材・構成 / 本田隆)


次回予告:再活動を始めた2003年からのグッバイ、そして来年40周年を迎える現在のグッバイについて、曾我さんのこれまでのキャリアを織り交ぜながら語っていただきました。

特集:The Good-Byeに夢中!

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2022.07.26
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カタリベ
1968年生まれ
本田隆
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