現在、日本中が興奮の坩堝と化している『ラグビーワールドカップ2019日本大会』。その中心にあるのは我らが日本代表 “ブレイブブロッサムズ” の華々しい躍進である。予選プールで「ティア1」といわれるチームの強さの指標(ランキング)に属するラグビー伝統国の一角、強豪のアイルランド、スコットランドを撃破して全勝で突破。史上初のベスト8進出を果たした。
地元開催の利があるとはいえ、一体誰がここまでのパフォーマンスを予想できただろうか。思えば2015年のワールドカップで、強豪国を破るジャイアントキリング(番狂わせ)を成し遂げ、予選プールで3勝を挙げながら敗れ去った日本チームだったが、その悔しさをバネにホスト大会を目指して、より一層の研鑽を続けた成果であろう。
ところで、晴れて決勝トーナメント進出を果たした準々決勝で日本が闘うのは、その前回大会で大番狂わせを演じた相手、南アフリカ共和国(以下、南アフリカ)である。一度勝ったことがあるとはいえ、彼らは今なお世界ランク TOP5にある強豪中の強豪。先月、今大会の直前に行われたテストマッチで日本は大敗を喫した上に、主力選手2名を負傷で欠くほどフィジカル面でも圧倒された。油断ならないことはもちろん、浅からぬ因縁の相手でもあるのだ。
南アフリカという国は、ラグビーが盛んであることからうかがえるように、元々イギリスの植民地から始まり、長年にわたりイギリス連邦の一角を占めていた歴史を持つ。金やダイヤモンドといった豊富な地下資源を産出し、連邦の繁栄を支えていたが、一方で支配階級による過酷な奴隷労働に端を発し、それが次第に社会の歪を生み出していった。政府は既得権益を維持すべく、治安維持を名目として、有色人種に対する差別を制度化した世にも悪名高い「人種隔離政策(アパルトヘイト)」を施行することになる。
このような非人道的な政策が世界的に許容されるはずもなく、同国政府を非難する国連決議が幾度となく行われ、国際的に南アフリカは孤立を深めていった。本来であれば連邦の長としてリーダーシップを発揮すべきだったイギリスが、当時は経済的に疲弊して国力を失っており、サッチャー政権の下、再建の途上にあったことも事態を悪化させた。
南アフリカの政策に反対する社会活動の指導者、ネルソン・マンデラ氏は国に対する反逆罪で1960年代に初めに投獄され、以来、四半世紀にわたって獄中にあった。反対運動の象徴であり、彼の存在が世界中に知れ渡ると、氏を開放せよとの発言が相次ぎ、その声は大きなうねりとなって、南アフリカに押し寄せていった。
音楽界においても影響力のある人々が次々とそうした政治的発言を行うようになり、とりわけ人権問題に敏感な英米のアーティストたちはそれを厭わなかった。スティーヴィー・ワンダーもその一人である。彼はマーチン・ルーサー・キング牧師の誕生日を祝日にするために「ハッピー・バースデー」という曲を書くぐらい、人一倍人権問題に対して高い意識の持ち主であった。
1985年は音楽によって社会的ムーヴメントを引き起こそうとする試みが、盛んに行なわれた年であった。アフリカの飢餓救済を訴えた1984年暮れの『バンド・エイド』に触発されて、3月には USAフォー・アフリカが続き、7月に開催された地球規模のビッグイベント『ライヴ・エイド』へとつながっていく。
同様に反アパルトヘイトについては、10月にEストリート・バンドの “リトル・スティーブン” こと、スティーヴ・ヴァン・ザントが提唱した『サン・シティ』のプロジェクトに多くのミュージシャンたちが集った。アパルトヘイトに対抗する英米の音楽界の動きとしては1980年ピーター・ガブリエル「ビコ」が最初に大きなインパクトを与えたといわれるが、複数のアーティストによるプロジェクトとしては1984年『ネルソン・マンデラに自由を(Free Nelson Mandera)』が知られ、1988年6月11日には、まだ獄中にあったネルソン・マンデラの70歳の誕生日を祝うトリビュートコンサートが開催された。
チャリティ色が濃かった『ライヴエイド』に比べ、このトリビュートコンサートは政治色が強すぎるとして、テレビ放送の大部分が検閲の対象となったが、このムーヴメントは次第に大きなインパクトをもたらし、それから約20か月後、マンデラ氏は本当に出獄を果たすことになった。
スティーヴィー・ワンダーによる反アパルトヘイト曲「イッツ・ロング(アパルトヘイト)」は、1985年の9月にリリースされた大ヒットアルバム『イン・スクエア・サークル』に収録されている。
彼のキャリアにおいて商業的に絶頂期にあったこの頃、グラミー賞の授賞式でマンデラ氏について発言したことで、南アフリカでは彼の楽曲が放送禁止の措置が取られた。ゆえに彼は、一般に政治的な配慮から放送されないシングルのリリースにこだわらずに、ビッグセールスを誇る彼のアルバムの中で主張してきた。
アルバムは当時、全世界で350万を超えるセールスを記録している。全篇アフリカンビートにあふれるこの楽曲はアップテンポで明るい印象を受ける。「♪ It's Wrong!(Wrong!) Wrong Wrong」とシンプルなコーラスが繰り返され、子供たちや非英語圏の人たちに対する広がりを期待する意図もあったかもしれない。
だがその内容は辛辣。「大虐殺はだめだ」「必ずお前たちは報いを受ける」などと唄われ、ステージでは大真面目な顔つきでパフォーマンスされていた。また彼は南アフリカ大使館前での抗議行動で逮捕されたこともあった。やがて彼は国連特別委員会からの表彰を受け、後年、晴れて自由の身となったマンデラ氏本人との会見も実現している。
南アフリカにおいてラグビーは、伝統国として相応しい歴史を有しているが、それはやはりイギリスから持ち込まれたものとして、長い間 “白人のスポーツ” として扱われ、分断の象徴でもあった。またその実力は広く知られていたにもかかわらず、アパルトヘイトのせいで国際舞台から遠ざけられ、第1回、第2回とワールドカップは参加がかなわなかった。だが1990年にマンデラ氏は解放され、1994年にアパルトヘイトが廃止。新政府誕生とともに彼が大統領に就任すると環境は一変する。
融和政策を推し進めるマンデラ大統領には、白人支配を連想させるラグビーを民族融和の象徴とすることで、国を一つにまとめていく構想があった。ワールドカップの招致にあたり国内には、伝統ある代表チームの名称やユニフォームを一新し、新生南アフリカをアピールすべきとの意見があった。しかし大統領はこれを退け、従来のまま出場させることを決める。
当時の代表に黒人の選手は1名のみ。だが大統領はチームを自ら激励し、交流を深めていく。そして1995年に自国で開催されたラグビーワールドカップに初出場を果たすと、新しく生まれ変わった国の威信をかけてゲームに臨んで快進撃で勝ち進み、念願の優勝カップを手にする。伝統の “スプリングボクス” のユニフォームに袖を通し、優勝カップを授けるマンデラ大統領の姿は世界中に配信された。
このエピソードは2009年マット・デイモン主演で『インビクタス』というタイトルで映画化された。マンデラ大統領を演じた俳優モーガン・フリーマンは、かつてマンデラ大統領が「もし自分の生涯を映画にするなら、誰に演じてもらいたいか」との問いに自分の名を挙げてくれたことに感激し、大統領に面会を求めてこの映画化の許可を得たという。
一方、世界的なドラマとなったこの大会で日本代表ブレイブブロッサムズの成績はというと、準優勝となったニュージーランドの “オールブラックス” を相手に17対145という記録なスコアで大敗を喫して敗退する。控えメンバー中心でしゃかりきに点を取りに来たオールブラックス(ティア1)を相手に、めったに手合わせをできない相手だからと、たとえ何点取られようと敢えてプレーを切らずに挑んだブレイブブロッサムズ(ティア2)は文字通り玉砕してしまう。このことを考えると、2015年での大会で日本が引き起こした奇跡がいかに悲願であったか!
本題に戻ろう。ラグビー南アフリカ代表は、前述したように世界中からハブられて苦しんだ歴史があり、ゆえに「ティア1」の座に胡坐をかいているようなチームではない。紆余曲折を経て、民族の誇りをかけて作り上げられたチームで、現在では有色人種が選手の6割を占めるようになったという。そして今、1995年のワールドカップで頂点を極めたチームと底辺に沈んだチームが、その本選で再び相まみえる。
今では多国籍軍に生まれ変わった日本代表のメンバーには、ゲームキャプテンも務めるラブスカフニとファンデルヴァルトの2名の南アフリカ出身の選手がいる。また、日本が誇る快速ウイング松島幸太朗も実は南アフリカで生まれで、南アフリカでのラグビー留学中に、南アフリカ U-20 代表候補にまでなった選手である。彼らには特に心に期すものがあるだろうし、相手もまた前回大会の雪辱を果たそうと寸分の油断もなく向かってくるだろう。このゲームでは、互いのチームの歴史をリスペクトし、互いに因縁の相手に打ち勝つべく再戦に臨む彼らの健闘を祈って声援を送りたいと思う。
2019.10.20
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