1月21日

The Good-Bye 曾我泰久インタビュー ① ジャニーズという事務所でのバンド活動!

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来年は結成40周年を迎えるThe Good Bye(以下グッバイ)。ジャニーズ出身のロックバンドとしてアイドル的な側面を持ちながら、ロックバンドの矜持で音楽性を深め、1990年の活動休止までに9枚のアルバムを残す。そして、ここにきての再プレスで評価は高まる一方だ。このタイミングでグッバイのリーダー、曾我泰久さんにインタビューを試みた。
ジャニーズ出身、アイドルをキャリアのスタートにしながらも、ギターと出会い、作曲に目覚め、自らの音楽性を深めていくと同時に、グッバイはアルバムごとに深化を遂げる。それはグッバイが日本のビートルズと言っても過言ではないほどのクオリティの高さゆえだ。
曾我は言う。「本物を目指すと芸能界は人気がなくなってくる」と。それでも音楽に寄り添い、現在に至る。このインタビューは、グッバイの音楽性を紐解くと同時にミュージシャン、曾我泰久の音楽への愛情の深さ、エンタテインメントと向き合うプロの生き様を感じ取ることが出来るだろう。全ての音楽ファン必読のインタビュー、スタート!

30年以上前に作ったアルバムが、今評価されるThe Good Bye




― レコードカルチャーにいる人の中でもグッバイというのは、すごく大きい存在のバンドです。結成当初からのファンの人たちにとっても、変わらず大切な存在だし、洋楽志向の人たち、パワーポップ好きの人たちにも評価されています。最近では、タワーレコードにCDを求めにくる海外のお客さんもいると聞きます。だから、今回の再プレスの意義は大きかったと思います。この現状について、曾我さんは当事者としてどのように捉えていますか?

曾我泰久(以下曾我):まずは嬉しいですね! 30年以上前に作ったアルバムたちが再評価されているというのは、当時真面目にやってきたことが評価されていると思います。
当時バンドでデビューする人が、最初から自分たちの演奏でレコーディングさせてもらえるというのは、本当に少なかったと思います。そんな状況でもジャニーズ事務所、ビクターさんが僕らの言ったことを尊重してくれて、やりたいようにやらせてもらいました。ただ、デビュー曲(「気まぐれONE WAY BOY」)だけは、作詞家、作曲家の先生が書いたものでなくてはいけないという決まりみたいなものがあって、それはどうしても押し切ることが出来なかった…。それでもB面は自由にやらせてもらえました。

― デビュー曲も自分たちの楽曲でデビューしたいという思いがあったのですね。

曾我:ありましたね。最初に楽曲のコンペがあって、とにかく、「曲を作って持って来い」と。その中で何曲か持って行って、アウトテイクでみんなに聴いてもらうことが出来たのですが、当時はそこまで力がなかった…。大人たちの意見を跳ね返すことが出来なかったというのがあったと思います。ただ、今思うと、「TAKE OFF」という(野村)義男と僕で作った曲が、デビューシングルになっていたら違っていたよね、といつも話していました。
… と言いながらも「気まぐれONE WAY BOY」という曲も、当時すごくキャッチーで、「♪ロッキントゥナイト〜」というサビをみなさん覚えてくれたので、そこはすごく大事なことでした。その後は、自分たちが曲を作って、詞を作って、演奏して… ということを淡々とやってこれた。
当時はテレビのランキング番組が主流だったので、狙ってはいたのですが、その流れにグッバイはついていけなかった…。シングルのA面はフックがないといけないとか、でもB面、アルバムは好きにやっていい。という風に言われていました。その中で自分たちが楽曲を手がけて、自分たちで演奏してレコードに出来るというのが、ただただ嬉しくて。自分たちが当時聴いていたもの、それまでに聴いてきたものを自分なりに解釈して吐き出していった時期だと思います。だから川原(伸司)さんのプロデュースのもとで、それぞれの曲をブラッシュアップしてもらって、ファーストアルバムを作った時には自分たちの演奏が収められていて、アルバムジャケットから全てコンセプトがありました。当時の歌謡曲とは違ったニュアンスに捉えられていたかもしれません。



― ただ、歌謡曲が好きな人たちにも刺さる作り方をファーストからしているな、という印象はありました。先ほど、「気まぐれONE WAY BOY」の話をされていましたが、今グッバイのシングルを俯瞰して聴いてみると、この曲だけ異質ですよね。

曾我:そうですよね(笑)。デビューシングルのバージョンはスタジオミュージシャンの方々が演奏してくれました。で、アルバムでは僕らが演奏している。その時はもっとロックっぽくしよう! となって、アレンジも変えました。

― シングルの方は、職業編曲家の先生の手腕というか、幅広い層に届けようという音の作りになっていますよね。

曾我:そこは大きなうねりと言いますか、トシちゃんが出て、マッチが出て、ヨッちゃんかと思えばシブがき隊が出てのヨッちゃんバンド...だったので。その流れで聴いていると、当時「TAKE OFF」だったら、弱かったのかもしれないですね。だから「気まぐれONE WAY BOY」でデビューという流れが自然だったのかもしれません。

ジャニーズ事務所からデビュー、グッバイまでの道のり


― 曾我さんもジャニーズでアイドルとしてやられていたわけですよね。そこで、ミュージシャンになろうと決意したのはいつ頃からですか?

曾我:僕は、グッバイの前にANKH(アンク)というバンドをやっていて、フォーライフからデビューしています。デビュー曲のB面は僕が書いています。当時は、ジャニーズが一番貧乏な時で、ジャニーズ事務所一社だけではデビューさせることが出来ないということで、三社合同の会社を作って、それでやっとデビューできた。そんな時代がありました。その時のアレンジャーが鷺巣詩郎さんで、ANKHというバンドは鷺巣さんのもとでレコーディングしていました。その時のメンバーだった松原秀樹はスタジオミュージシャンになるのですが、鷺巣さんが、よくスタジオに誘ってくれたんですね。長谷部徹、松原秀樹、僕の3人をとにかくスタジオに呼んでくれて、スタジオミュージシャンにしようとしてくれていました。
そんな経験をしながら、当時は同時並行でドラマにも出演していました。最初に出たのが『俺んちものがたり!』という井上順さん主演のドラマで、その後に『ぼくらの時代』『茜さんのお弁当』に出演しました。
ドラマをやりながら、自分で曲を作っていました。ANKHというバンドは、中学生ぐらいからメンバーと一緒にやってきたバンドだったので、音楽的なぶつかり合いというのが結構ありました。それで、「バンドは面倒臭いからいいや」と思っていた矢先に “たのきん” がバーンと出て、ジャニーさんから、ヨッちゃんがバンドでデビューしたいらしいから、「ヤッチン面倒見てやって」と言われて。それで、「面倒は見るけど、バンドはやりたくないから、メンバーにはならないからね」とは言いました。ただ、ミュージシャンとしては、鷺巣さんにいろんな場所に呼んでもらって、当時はそれに加え、トシちゃんのバックをやっていました。だから、ミュージシャンとして自分で曲を作って、ドラマが年間何本か出来ればいいな… みたいに考えていました。

― すごくシンプルな疑問として、曾我さんって何でも出来ますよね。ダンスもおやりになるし、ギターも弾く。多忙な中の限られた時間の中でひとつひとつをプロのものにしていこうという、意識の高さはどこから生まれるのですか?

曾我:僕はリトル・ギャングという二人組で中学1年の時にデビューしたのですが、相方の松原秀樹が変声期になってしまって、シングル2枚、アルバム1枚で終わりました。その後に川崎麻世君がジャニーズに入ってきて。その時、ジャニーズ事務所にギターとドラムが出来る2人がいました。そこで、リトル・ギャングとこの2人が合体してバンドを組めと。川崎麻世のデビュー曲を演奏しろ、とジャニーさんからの命令があったんですね。だから、僕らリトル・ギャングにはギターとベースのポジションがありました。そこでギターの取り合いになって…。当時ベースは地味に見えたので(笑)本当にケンカして、ケンカして、最後にジャンケンの3回勝負で僕が勝ってギターになりました。負けたのが松原秀樹で今や日本を代表するベーシストになっているという(笑)。
だから、バンドに憧れてギターを始めた訳ではなく、半ば無理矢理楽器を持たされたところからのスタートでした。

― そこで、自分には適性があったと感じたとか?

曾我:いやいや、とにかく仕事としてやらなくてはいけない状況でした。川崎麻世君のデビューは決まっているし、そのデビュー曲を演奏しろ、と言われたら演奏しなくてはいけないんです。当時、何曲やったのかな? ロックフェスなんかにも出演したのですが、チューニングもままならないままの出演でした。当時楽屋で山本恭司さん(BOWWOW)にチューニングを教わったのを覚えています。僕ちゃん、僕ちゃんって(笑)。

― ちなみにその時、曾我さんはおいくつですか?

曾我:中学3年か… 高校1年か、そのぐらいですね。

― ジャニーズは、グッバイ以前にもバンドに力を入れようという動きがあったのですね。

曾我:ジャニーズでは昔からフォーリーブスのバックバンドであったり、郷ひろみさんのバックバンドであったり、デビューは出来なかったのですが、いくつかのユニットがありました。バンドとしてデビューするはずだった人はいましたが、結果的にデビューできなかったという状況が続いていました。ただ、ジャニーさんの中には、バンドもバックダンサーもジャニーズの子たちで固めたいという構想はあったと思います。
それで、川崎麻世君が入ってきた時にバンドを始めるのですが、楽器も初心者なので、自分たちでやるのはKISSのコピーだとか、そんなことをやっていて、麻世君がコンサートでやりたいという曲を耳コピして、譜面書いて… というのをずっとやっていて、高校生3年の時にANKHでデビューしました。
こういう音楽を始めたいというのでバンドを始めたのではないので、やりたい音楽もみんなバラバラでした。

The Good Bye デビュー。この姿かたちでやりたいことをやるのがロックだと


― その後がグッバイですよね。当時は、アイドル的な立ち位置を求められると思います。それとは別にミュージシャンの仕事もやらなくてはいけない。二つの立ち位置があって、そういう部分で悩むことはありましたか?

曾我:僕は11歳からジャニーズなので、バンドらしさとかっていうのもよく分からなかった。当時、自分たちよりももっとアイドルっぽい人たちが、ロックバンドとしてロックの雑誌に紹介されていたりすると、何だろうな? というのは正直ありました。つまり、姿かたちで評価されることの疑問ですね。だったら、この姿かたちでやりたいことをやっている方がロックなんじゃないかと。変に「俺はロックだぜ!」というのではなく、そっちの方がロックだと思っていました。
ただ、80年代半ばぐらいからバンドブームになっていって、TVKの『ミュートマジャパン』(ミュージックトマトJAPAN)とかが流行りましたよね。だから、グッバイもミュートマジャパンに出たい。ブッキングして欲しい。と言ったら、「なんでそんなUHFに出なきゃいけないんだ」って事務所の部長に言われて(笑)。
いや、今ここに出たい、と言っても、うちの事務所からはそこには出せない、で話は終わってしまうんです。

― ジャニーズってキー局に出演するのが当たり前で、『レッツゴーヤング』なんかに出ているイメージがありました。確かにミュートマに出れば、そこからジワジワと音楽好きに浸透する可能性もあったわけですよね。そこは辛いですよね。

曾我:そうですね。だから雑誌だと、『明星』『平凡』『セブンティーン』などもいいですが、『GB』とか『PATi・PATi』とか、ロック系の雑誌にも出たかった。それも言いましたが、「うちにはそのラインがない」と言われて…。
そういう中で暴れていたのがメンバーの中では僕ひとりで、事務所に掛け合っても何もしてくれない。それがストレスになりました。

― グッバイのデビューは1983年ですよね。その頃は日本のロックがどんどん成熟していく時期で、ちょっと経つとバンドブームがあって、その中でグッバイの立ち位置は他のバンドと異なっていましたよね。だから、その時に売れていたバンドとは違う場所で音楽性を高めていくわけですよね。その時、邦楽のロックシーンをどのように思われていましたか?

曾我:僕は、そっち側に行きたいと思っていました。そっち側で正当に評価していただきたいという思いが常にありながらも、やはり事務所でブッキング出来る番組は決まっていて、昔ながらの付き合いの出版社も決まっている。そうなると、僕が求めるラインは引いてくれなかった…。それでも、毎日のようにテレビ局に行って、取材を受けて、という忙しい時間が過ぎていきました。その中でシングルとアルバムを年間何枚作らなくてはいけないという話もプロデューサーの川原さんから聞いていて、その中で曲を作り続けていました。だから、自分たちで何をしようとしてもそっちのラインには行けなかった。
当時、コンサートも、当たり前のように1日2回公演でした。それを、1回にして欲しい。演出もシンプルにして、ロックっぽくやりたいとも提案しました。その辺はだいぶ飲んでもらえたんですけど…。
ジャニーズ、“たのきん”というところから出てきたバンドで、今のマネージャーは僕の二つ上ですが、最初からジャニーズっていうだけで聴く耳を持たなかった、と言うんですね。だから、僕のマネージメントをするようになって、グッバイの音源を聴いて、ライブを観て、「グッバイってこんなに良かったんですね」と。それは悪気があったのではなく、「最初からシャッターを下ろしてしまうような男性ファンというのがほとんどだったと思います」と言われて…。確かにそうだったかも、と。

― グッバイってチェッカーズと同期ですよね。僕は、グッバイもチェッカーズも普通に好きになれました。そのきっかけは、「モダンボーイ狂想曲」でした。ちょっとストレイ・キャッツっぽい感じが良かったです。ちゃんと色々な音楽を取り入れてやっているんだなと、子供心に思えて。それから良いシングルをどんどんリリースして…。だけど、男の子はジャニーズに嫉妬というわけじゃないけれど、そういう気持ちがありますよね。それがすごくもったいなかった。

曾我:でも、だからこそ、30年以上経って、評価してもらえることは嬉しいことですよね。

(取材・構成 / 本田隆)


次回予告:アルバムごとに深化するグッバイの音楽性、そして曾我さんだから語れるメンバーの素顔に迫っていきます。

特集:The Good-Byeに夢中!

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2022.07.25
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