3月30日

チェッカーズの豊かな音楽センス!ステップとなった4thアルバム「FLOWER」の魅力

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完全オリジナル路線へ舵を切るきっかけになった「FLOWER」


いきなり個人的な話で恐縮だが、私には2人の妹がいる。上の妹は1967年生まれの私と年子で、1968年生まれ。下の妹は4つ下で、1971年生まれだ。

上の妹は1980年、中学生になると、その年にデビューした田原俊彦の熱烈なファンになり、毎日のように部屋でレコードをかけていた。なので隣の部屋にいた私は、新曲が出るたびに自然と覚えてしまった。「門前の小僧、習わぬ経を読む」ならぬ「隣部屋の兄、習わぬ曲を歌う」だ。なので私は今でも、初期のトシちゃんの曲を完璧に歌える。

3年後の1983年、今度は下の妹が中学生になった。この年にデビューしたのが、そう、チェッカーズである。上の妹同様、下の妹もすぐ彼らにハマり、同じように連日レコードをかけまくった。まさに『毎日!! チェッカーズ』だ。てなわけで私は初期のチェッカーズの曲も、いまも完璧に歌える。

そんな私が妹たちのヘビロテ攻撃からようやく解放されたのが、1986年3月だった。大学進学で上京したのである。その1986年3月にリリースされた通算4枚目のアルバムが『FLOWER』だ。私は念願の東京生活が叶いウキウキしていたけれど、この頃のチェッカーズもちょうど転換期にあった。「売野ー芹澤路線」から “完全オリジナル路線” へ舵を切るきっかけになった1枚がこの『FLOWER』である。

テレビ出演を厭わず、またアイドルであることを拒まなかったチェッカーズ


チェッカーズはもともと、自分たちで曲が書けるバンドだった。作詞は主に藤井郁弥(現在はフミヤ)、作曲は武内享・大土井裕二・鶴久雅治・藤井尚之が担当。高杢禎彦も詞が書けた。

だがシングルA面はデビュー以来一貫して、彼らの師匠でもある作曲家・芹澤廣明が担当。詞もほぼ売野雅勇(デビュー曲「ギザギザハートの子守唄」と9枚目「神様ヘルプ!」は康珍化)が書いていた。

オリジナル曲はシングルB面かアルバムに収録されるパターンが多かったが、これはまあ仕方ない。チェッカーズをスターダムにのし上げたのは「売野ー芹澤作品」であり、実際ナンバーワンヒットが続いていたのだから。

ただ、1986年2月にリリースした通算10枚目のシングル「OH!! POPSTAR」はオリコン2位止まりに終わり、3枚目「哀しくてジェラシー」から前作「神様ヘルプ!」まで続いていた連続1位記録が途絶えてしまった。当時、この「OH!! POPSTAR」を彼らはライヴでほとんど演奏しなかったが、B面曲「おまえが嫌いだ」(詞:藤井郁弥、曲:武内享)は何度も演奏した。メンバーも後に証言しているが、まさに “悩める時期” だったのだ。



チェッカーズの偉大なところは、テレビ出演を厭わず、またアイドルであることを拒まなかったことだ。「売れて何が悪いんだ? オレたちの音楽をたくさんのファンに聴いてもらうことが第一だろう」と考えていたからで、この懐の広さがあったからこそデビュー以来の快進撃が続いていたのである。

ただ、ライヴでオリジナル曲を披露し、ファンからの反応を肌で感じるうちに、彼らの中で「そろそろ芹澤先生から “解放” されてもよくね?」という思いもだんだん大きくなってきた。それもまた当然だろう。

一方、芹澤も決して彼らを押さえつけていたわけではなく、むしろ「もっと自分たちで曲を書いてみろ」という姿勢だった。芹澤は時期を見てチェッカーズを自分から “卒業” させようと考えていたようで、この『FLOWER』はまさにステップの場となった。

黒い衣裳の7人が花に囲まれたアート風ジャケット


全10曲中、オリジナル曲が半分の5曲。すべて藤井郁弥の作詞で、曲は藤井尚之が2曲、武内・大土井・鶴久が1曲ずつ担当した。注目はこの5曲、編曲のクレジットがすべて「チェッカーズ」になっていることだ。芹澤の意図は明確で「このアルバムは半分君たちに任せるから、好きに作ってみなさい」である。

ほかの5曲は売野ー芹澤作品だが、シングルA面曲は前年7月にリリースした「俺たちのロカビリーナイト」のみ。直前に発表した「OH!! POPSTAR」は収録されていない。



『FLOWER』というタイトルも、バンド名を冠していたアイドル風の前3作(『絶対チェッカーズ!!』『もっと! チェッカーズ』『毎日!! チェッカーズ』)からの変化は明らか。黒い衣裳の7人が花に囲まれたアート風ジャケットも、彼らは否定していたけれど、アイドル路線からアーティスト路線への転換か? と噂された。

私も当時、レコード店でこのアルバムのポスターを見て「あれ?」と思ったのを覚えている。上京前は妹から強制的に聴かされていたチェッカーズだが、本作は彼らがどう変わったのか気になり、カネがなかったので貸しレコード店で借りて聴いてみた。

地方出身者には胸が熱くなるし、沁みる名曲「時のK-City」


このアルバム、まずA面1曲目の「Free Way Lovers」に心をつかまれる。藤井兄弟の作品で、間奏の爽やかなギターソロが印象的だ。流れるように2曲目「Two Kids Blues」へ。これも郁弥ー鶴久のオリジナル曲。鶴久はのちにシングル曲を多数手掛け、他のアーティストにも楽曲提供するなど作曲家としても活躍していくが、これも才能を感じさせる曲だ。

このつかみの2曲、当時「やるなあ、チェッカーズ」と思ったし、私には「もう僕たち、自分らでやってけますよ、芹澤先生」という “独立宣言” に聴こえた。

B面2曲目の「Long Road」もファンの間で人気の高い曲だ。藤井兄弟作品で、イントロのオルガンにまずグッと来る。特筆すべきは、本アルバムの最後を締めくくる「時のK-City」。作詞は郁弥、作曲は武内で、ボーカルは鶴久。「K-City」とは彼らの故郷・久留米のことだ。

 泣いたり笑ったりが毎日だった
 くだらないことを競い合ってた
 Good bye 時のK-City
 Good bye 時のFriendsあのネオンが消えた日

これも地方出身者には胸が熱くなるし、沁みる名曲だ。

いま久々にアルバムを通して聴き直して、あらためて感じるのは、チェッカーズの豊かな音楽センスだ。何せ作曲家が4人もいるのだから、バラエティに富んだ楽曲を自前で作ることができる。演奏力もさらに進化し、アレンジも自在。それでいて “アイドル” であることも否定しない。そんなバンド、当時の音楽シーンを見回しても、どこにもいなかった。

「FLOWER」は才能の “開花” を示すアルバム


いまオリジナル曲についてのみ綴ったけれど、売野ー芹澤作品5曲もこのアルバムに欠かせない要素だ。高杢が歌うB面4曲目「悲しきアウトサイダー」は彼のキャラにぴったりハマった1曲で、さすがはプロの仕事。『FLOWER』は売野ー芹澤作品とオリジナル曲が絶妙のバランスで並び、前期チェッカーズをまさに総括する1枚だった。妹から強制的にアルバム含め全曲を聴かされていた私が言うんだから間違いない(笑)。

『FLOWER』が出た3ヵ月後、1986年6月に通算11枚目のシングル「Song for U.S.A.」がリリースされ、これがシングルでは最後の売野ー芹澤作品となった。



私は以前、芹澤にインタビューしたことがある。そのとき芹澤は「若い頃はバンドをやっていて、全米デビューするのが夢だった」という話をしてくれた。だがその糸口がつかめず、諦めた夢を託したのが「Song for U.S.A.」である。「チェッカーズに贈る最後の曲は、これにしようと決めていた」そうで、その思いを売野が詞にしてくれた、とも。

事実、この曲を最後にチェッカーズは芹澤の手を離れ、藤井兄弟が書いた12枚目のシングル「NANA」(1986年10月)から完全オリジナル路線に移行する。こう書くと円満に師匠のもとから巣立ったように思えるが、実際はそう簡単なことではなかったらしく、チェッカーズもまだ若かった。性急さゆえの微妙なすれ違いがあったようで、以降芹澤とはしばらく疎遠になる。

ちなみに付記しておくと、芹澤は50歳から英語を本格的に学び、なんと70歳でソロシンガーとして米国デビュー。一度は諦めた夢を実現させた。疎遠になっていた藤井フミヤとも、売野も交えてNHKの番組で対談し “和解”。これは観ていて嬉しかった。フミヤにとって芹澤は師匠であり、アイドルとバンドサウンドを両立させるという偉業に挑んで成功させた “戦友” なのだから。

『FLOWER』は才能の “開花” を示すアルバムでもあり、自分のもとから旅立つメンバーへ贈る、芹澤からの “祝いの花” でもあった。

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2023.09.13
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カタリベ
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