前回、「ロック・ボーカリストは声量が大事」という話をしましたが、今回はその続きです。圧倒的な声量で、80年代初頭を席巻した、初期・松田聖子の話をしたいと思います。
まず、「初期・松田聖子」をより具体的に定義します。今、あらためて音源を聴いて、ボーカルに声量とツヤが完璧に備わっているのは、シングルで言えば『夏の扉』までと思いました。
つまり『裸足の季節』『青い珊瑚礁』『風は秋色』『チェリーブラッサム』『夏の扉』の5曲で、期間で言えば、『裸足の季節』のリリース日=80年4月1日で、『夏の扉』のリリース日が81年4月21日ですから、松田聖子のボーカルが輝いたのは、実は、たったの1年間だったということになります。
『夏の扉』の次のシングル=『白いパラソル』から、ボーカルが少しずつ、くぐもってくる感じがします。「くぐもる」というのは、あまり使わない言葉ですが、松田聖子のボーカルの変化は、まさに「くぐも」っていくという感じがぴったりなのです。ただし、そこから、「ささやくような泣き節」とでも言うべき、新しい歌い方をマスターし、更に上昇カープを描いていくところが、松田聖子の凄いところでもあります。
さて、最近は、松田聖子と言えば松本隆ということになっていて、下手をしたら、松田聖子の作詞は、すべて松本隆が書いたものと勘違いしている人も多いかも、なのですが、実は、『夏の扉』までのシングルの歌詞は、松本隆ではなく、すべて三浦徳子(みうら・よしこ)が書いています。
ということは、先に書いた「初期・松田聖子」とは、つまり「三浦徳子期」であり、「プレ・松本隆期」ということになります。松本隆は、くぐもっていく松田聖子の声に対応した形で、さまざまな傑作歌詞を生み出していったということになるのですが。
ここで、三浦徳子による、松田聖子の声の印象――「とにかく声量がありましたね。スタジオで彼女の歌を初めて聴いたとき、いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらいで、今現在の声とは全く違っていたんじゃないでしょうか」(1995年『月刊カドカワ』七月号)
このコメントを見て思い出すのは、昔ラジオで聴いた、大貫妙子による、シュガー・ベイブ時代の山下達郎のボーカル評――「声がとにかく大きくて、歌いだしたら、スタジオの窓が震えたんです」。
本当に窓が震えたのかどうかはともかく、今シュガー・ベイブの音源、とりわけアルバム『SONGS』の1曲目=『SHOW』の歌い出しなどを聴くと、本当にスタジオの窓が震えそうなくらいの大声で歌っていることが、よく分かります。
では、山下達郎における『SHOW』の歌い出しに当たるところを、松田聖子のシングルで特定してみたいと思います。
まずは何といっても、『青い珊瑚礁』の「♪ あゝ 私の恋は南の風に 乗って走るわ」です。この、日本国民が何万回と聴いたであろうサビのボーカルは、伸びやかでつややかで、とても素晴らしい。ぜひ、あらためて確かめながら聴いてみて下さい。
その他、デビュー曲『裸足の季節』の「♪ エクボの 秘密あげたいわ もぎたての青い風」のところも素晴らしいし、4枚目のシングル『チェリーブラッサム』の歌い出し直後の「♪ 走り出した船の後」もいいですね。
アルバム曲まで広げれば、デビューアルバム『SQUALL』の6曲目(B面1曲目)『ロックンロール・デイドリーム』や、アルバム『North Wind』の、こちらも6曲目(B面1曲目)『Only My Love』あたりは、身体全身がスピーカーとなって、松田聖子が歌っている、いや、叫んでいる・吠えている感じがします。
そんなボーカルに耳を澄ませていたのが、松本隆です――「『裸足の季節』がCMソングとして、テレビから流れてきたのを聴いて、『この人の詞は、ぼくが書くべきだ』と直感したんだ。彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がして」(CD『風街図鑑』リーフレットより)
そして、念願かなって、松田聖子の歌詞を担当することになったのはいいのですが、その松本隆の前に表れた松田聖子の声は、『裸足の季節』のあの声とは、違ってきていたのです――「『白いパラソル』の頃、聖子さんの喉の調子が悪く、ハイトーンの張る感じが出にくくなっていたこともあり、若松さん(鈴木註:CBSソニーのプロデューサー)と相談して、テンポをミディアムに落とすことに決めて、繊細な歌を作ろうと心がけた」(同CD『風街図鑑』)
松本隆を、そして一億人を魅了した、「初期・松田聖子」のあのハイトーンが失われていく。その厳然たる事実を目の前にしたからこそ、松本隆のあの繊細かつ劇的な歌詞が生み出されたと、私は思うのです(続く)。
2017.11.11