4月5日

梅津和時が語るRCサクセション ② ライブ本数年間100本!武道館も出発点

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『梅津和時が語るRCサクセション ① やっぱり特別!久保講堂ライブ「RHAPSODY」』からのつづき

「俺、カッコいい!」、「俺、最高!」ツアー中のRCサクセション


― さらにライブも80年に久保講堂があって81年に武道館。会場がどんどん大きくなっていきました。

梅津:その期間が1年半しかないと思うと、ちょっと不思議ですね。その時期は自分のバンドも解散の方向へ向かっていく状況だったし、個人的にも海外に行くのも増えたし、色々な変化がありました。と言いながら、RCはどこでライブをしても楽しかったしね。各地を周って、当時はまだ貧乏旅行だったので、そこも面白かったですね。
例えば、関西だと、打ち上げで珉珉(みんみん / 中華料理店)に行って餃子が出てくるのが嬉しかったとかね。

― 機材車で行ったりとかですか?

梅津:いや、僕らは新幹線に乗っていました。「すげー、新幹線で行けるんだ」と感動していました。まだグリーン車ではなかったです。

― 当時地方のライブはいかがでしたか?

梅津:大体の場所は盛り上がりましたよ。東京からの追っかけのファンもずいぶん来ていたと思うので。行く場所、行く場所すごい盛り上がりで客が少ない場所はなかったですね。あの頃は雑誌の『宝島』だとか『ビックリハウス』とかで情報を得ていたと思うので。今のネット社会とは別の情報網がありましたから、そのネットワークの中でRCは今観ておかなくてはいけないバンドだったと思います。



― 『宝島』には毎月載っていましたよね。

梅津:毎月でしたっけ(笑)。

― ほぼ毎月、何らかの形で載っていたと思います。よく表紙にもなっていましたよね。日本全国のロック少年、ロック少女にとって押さえなくてはいけないバンドだったと思うし、僕もそのひとりでした。
先ほど梅津さんがRCはキャロル的なロックンロールバンドとは異なる様式だったと言われましたが、当時の僕らにとっては、あれが最新型のロックでした。

梅津:ですよね。化粧をした派手なビジュアルのロックというのが、まだ日本ではそこまでなかったと思うし。あれもよく思い切ってやったなと。本人たちはあまり抵抗がなかったと思うのですが。
僕も普段から、そういう形態のロックをやっていたわけでないですが、僕も1年目ぐらいから多少のメイクはしていたと思います。みんなやっていたから。新井田さんもしていたし(笑)。

― 見た目の派手さもそうですが、梅津さんもステージですごく動きますよね。

梅津:あれは私も大好きだから。最初の頃はマイクが有線でしたが、無線にしてもらったのがめちゃくちゃ嬉しかったです。
清志郎も動くから、僕らが動くのも役割であるなと思っていたし。やっぱり楽しいし。

― やっているミュージシャンが楽しいと、それが観客にも伝わってきますよね。インプロビゼーション的な動きも多かったですよね。

梅津:はい。ほとんどそうですね。片山との合わせも大体そうでした。二人だったら、振りが合わなくてもそういうものだと思われれば問題ないかな。一緒に右に向けば合っているように思われるし。
ジェームス・ブラウンとかのビデオも清志郎から結構観させられました。「ホーンセクションはこれだけ動いているぜ」と。ダンスの足の運びなんかも教えてもらいましたね。ソウルグループって、振りが決まっているので、あれもかカッコいいなと。RCのステージでそういう元ネタはいっぱいありましたね。
生活向上委員会もめちゃくちゃ動くバンドだったので。ただソウル系ではなかったですね。

― 梅津さんはフリージャズをやられていて、そこでの即興的な部分もRCの中でも活かされということですか?

梅津:そうなのかもしれない。ただ、僕はジャズにあまりこだわっていなかった。フリージャズというのは、全ての音楽の要素を持ち込むものだから。その前に知っていたアルバート・アイラーとか、オーネット・コールマンだとか、ローランド・カークなどのジャズミュージシャンからはR&Bの影響をものすごく感じていて、いわゆるビーバップのジャズではないと分かっていた。だからそちら側から攻めてみたいという気持ちがあったんですよね。清志郎もローランド・カークとか大好きでしたから、その辺では話が合ったし、やりたいことも合致していましたね。
イアン・デューリーと話をした時も、彼はローランド・カークを観て音楽をやろうと決意したと言っていましたから。イアン・デューリーって身体にハンディキャップがあったけど、ローランド・カークも目が見えなかった。それでも管楽器を何本も咥えてプレイしたり、ピエロみたいなことや、サーカスみたいなこともやっていました。もちろんミュージシャンとしての実力は素晴らしいので、そういう部分も含めて影響を受けましたね。ステージでの格好も燕尾服を着て、山高帽かぶってやっていましたし、それもだいぶ真似させてもらいました。

― イアン・デューリーといえば、彼のバンド、ブロックヘッズのメンバーも清志郎さんのソロアルバム『RAZOR SHARP』に参加していましたよね。彼らとのレコーディングは梅津さんにどのような影響を与えましたか?

梅津:コイツらは日本のミュージシャンと全然違う、とまで思いませんが、味が違う、感覚が違うというのはありましたね。

― 梅津さんは元々ロックをあまりお聴きにならなかったですよね。

梅津:でもイアン・デューリー&ブロックヘッズは好きでした。とは言いながら、ロックをちゃんと聴き出したのはRCに関わってからですね。
ポリスがいてデヴィッド・ボウイがいて… という状況も面白かったし。

― 話は変わりますが、当時RCのメンバーとはどのような関係性がありましたか?

梅津:基本的には、ステージ上とリハーサルだけですよね。地方に行くと、清志郎はライブが終わったら、その日のビデオを観るというのが習慣でした。最初は私と片山もそれに参加していましたが、それよりも各地に知り合いのジャズ喫茶だとかジャズの店があるので、そっち行って自分のどくとる梅津バンドの宣伝もしたくて飲みに行くわけですが、そうすると、だんだんGee2woが付いてきたり、時々新井田さんが一緒だったり。そこにチャボ、リンコさんが一緒ということはなかったですね。彼らはホテルの自分の部屋で過ごすか、清志郎の部屋にいる感じでしたね。最終的にはGee2woも新井田さんも清志郎の部屋でビデオ観て盛り上がっていたと思いますが。

― 清志郎さんは終わってからの反省も含めてということですか?

梅津:「俺、カッコいい!」とか「俺、最高!」とか、そういう感じでした(笑)。なんなのコイツらって(笑)。
全然反省はしていませんでした。お互いに自分がカッコいいところを褒め合っているという。人が褒めてくれなくても自分で自分のことを褒めるという(笑)。

武道館も出発点という捉え方。久保講堂で階段を一段上がったという感じ


― 梅津さんの “どくとる梅津バンド” と清志郎さんのアルバム『DANGER』を作ったのはその頃ですよね?

梅津:あれは、なんか別のことをやりたいという気持ちがあったのと、あの時期のRCでは出来ない「貴女のお嬢さん」とか、ああいう曲を自由にやりたいというのがありました。清志郎にも表サイドと裏サイドがあって、その裏側をやりたかったんじゃないかな。
清志郎は売れないでいいと思っていたと思う。私たちは売りたかったけど(笑)。自分としてはポップなものを作ったつもりだったし。元々はポップとはかけ離れたバンドだったので。

― RCはポップですからね。

梅津:はい。『DANGER』もポップだし、それにつられてどくとる梅津バンドもだんだんポップになっていったと思います。

― そうすると、梅津さん自身もサックスプレイヤーとしてのスタイルがだいぶ変わっていったということですか?

梅津:スタイルが変わったというか、どちらもやりたかったことで、最終的にはひとつにしたい。それがいつ出来るんだろうとも思いますが。今 “KIKI BAND” とかをやっていても単純にジャズのバンドではない。やっぱり、色々な要素が入っていた方が面白いし、ヴォーカルが入るのも違和感がない。そういった意味で影響を受けたのは確かですね。

― それで、梅津さんもRCも互いに影響を受けながら、ひとつの到達点と考えられるのが81年の武道館ということですか?

梅津:どうかな? あの武道館は、久保講堂と同じように出発点と捉えた方が良いかもしれません。久保講堂で階段を一段上がっただけという感じですね。

― 梅津さんが久保講堂でRCと一緒にステージに立った時と、武道館のステージに立った時というのは、どういう違いがありましたか?

梅津:武道館の時は、結構自信を持っていましたよね。当然、このくらい湧くだろうというような確信がありました。
武道館は、個人的にも初めてだったので嬉しかったけれど、なぜか、久保講堂の時ほど覚えていないです。久保講堂の時の方が衝撃は大きかった。
武道館の時はステージが斜めだったりしたので、足を挫かないようにしようとか考えて…。その代わりに転がったりと色々していましたが(笑)。



― ローリングストーンズ81年の北米ツアーと同じスタイルのステージですね。

梅津:はい。あれですね。真似しちゃって、と思ってました(笑)。

― 武道館の前には渋谷公会堂とかありましたよね。

梅津:はい。渋谷公会堂以外にも色々な会館を周っていました。武道館はその延長になるのかな。

― あの頃のライブ本数は年間100本と聞いています。

梅津:ものすごかったですね。

― そんな怒涛の80年、81年で、今も忘れられない出来事はありますか?

梅津:千葉のどこか… 体育館でやった時に床が抜けました。お客さんの熱狂で。みんな前に押し寄せて、そのままストンと落ちたのをステージから見ていて。怪我人、死人が出たら俺たちお終いだな… と思ったのを覚えています。ただ、幸い怪我人も出なかったし、ニュースにもならなかったですね。

― 当時のライブはセキュリティが甘かったですよね。そういう部分も含めて今とは違う感覚がありますよね。

梅津:まだ紙テープがステージに飛んできた時代ですからね。みんなテープの受け方も上手くなっていたし。

梅津和時のサックスでうまく転がり出したRCサクセション


― ライブの熱狂と同じようにレコードも売れてきた時代ですね。

梅津:レコードはあまり売れなかったと思います。売れたという話はあまり聞かなかったですね。これだけライブが盛り上がっていたのに、これだけレコードが売れないバンドも珍しいと言われていました。
「サザンはガンガン売れるけど、RCは売れなない」と(笑)。
すごく不思議なのは、今も色々なバンドがアンコールで「雨あがりの夜空に」をやりますよね。だけど、シングルの「雨あがりの夜空に」って何万枚も売れたという話は聞いてないし。それに、あの曲を我々でもう一度レコーディングしようという話も出なかった。



― それはなぜですか?

梅津:ねえ(笑)。シングルでは、別のミュージシャンがバックをやっているから。清志郎たちはこのシングルが嫌いだった。だから、もう1回レコーディングすればいいと思っていたんですが、契約上の問題とかがあったのかもしれません。

― 「雨あがりの夜空に」は日本を代表するロックンロールだと思うのですが…。ファンの印象としては、「雨あがり」って『RHAPSODY』に入っているライブヴァージョンが定番ですよね。

梅津:はいはい。でも、あれもシングルにはなっていないからね。ラジオでかかるやつは、残念ながらシングル盤の「雨あがり」だし…。

― かつては、そういう不本意なリリースもあって、梅津さんが関わるようになった『RHAPSODY』以降は自分たちが納得する音でリリースできるようになったということですよね。

梅津:それは、すごく大きなことだったと思いますね。『RHAPSODY』のリハーサルでも「雨あがり」は、あのシングルのイントロをコピーして「こうやって吹けばいいんでしょ」って言ったら、「それはやらないでくれ」と言われて。「梅津さん自分で考えてくれ」と。そこで、「あ、あれは好きじゃなかったんだ」とびっくりしましたね。それで、あのイントロが出来上がりました。
RCは『RHAPSODY』以降、売れることで自分たちの音を作れるようになったと思います。



― すると、梅津さんが入ることでRCサクセションが本来のバンドの姿として、うまく転がり始めたということですね。

梅津:そうだと思います。それを最初から清志郎が意図していたなら、すげーなと思います。
なんで小川銀次が辞めるのに、ギターを入れないで俺なの? と思ったし。チャボが「ギターは全部やるよ」って言うのをリハの時に聞いていたし。

― チャボさんは元々サイドギターでしたよね。それで、梅津さんたちが入ってホーンが主体となる音になっていく面白さがありました。
先程、武道館が出発点だというお話を聞きましたが、あそこから新たな試みをやりたいということですか?

梅津:そこから思いっきりグーっと頂点に行ったという感じではないし、あれが完成形ではない。RCではなく、“ナイスミドル・ウィズ・ニュー・ブルーデイ・ホーンズ” として清志郎とやった最後の武道館が完成形のような気がします。
あれだけ多くの曲をやって、清志郎も昔ほど動けたわけではないけれど、あれが一番すごかったと思うので。

(取材・構成 / 本田隆)


■次回予告
実は梅津和時メンバー加入の話があった? 梅津さんにとってRCサクセションと過ごした日々はどのようなものだったのか? そしてバンドマン忌野清志郎の本質とは? その深い部分までじっくりと語ってくれました。いよいよ最終回です。


※編集部よりお知らせ
【よみがえる!伝説のコンサート】 
RCサクセション伝説のライブが2本立てで配信!
81’日本武道館×83’渋谷公会堂

ご好評につき、8月31日まで延長することが決まりました。

▼ 配信サイト:以下よりお好みの配信サービスをお選びいただき、詳細ページをご確認の上、チケットをご購入ください。
PIA LIVE STREAM / NHKグループモール


まだ、配信をご覧なられていない方はこの機会にぜひ、ご覧くださいませ。
(一度チケットをご購入いただいたお客様につきましても前回のチケットで8月31日まで配信をご覧いただけます)

RCサクセション “KING OF LIVE” への道のりを徹底特集!

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2022.08.24
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カタリベ
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