4月5日

梅津和時が語るRCサクセション ① やっぱり特別!久保講堂ライブ「RHAPSODY」

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1980年4月5日。アルバム『RHAPSODY』のライブレコーディングありきで行われたRCサクセション久保講堂公演。ここから濃密な時間を過ごし、ライブ、レコーディングと行動を共にするようになったジャズミュージシャン梅津和時。RCサクセション、忌野清志郎の軌跡を語る上で欠くことのできないキーマンである梅津が、当時を振り返り、バンドの内情、音楽性が深化してゆく過程を余すところなく語ってくれた。全音楽ファン必読のロングインタビューです。


清志郎との初めての出会い“栗原清志とオールスターズ”


― 今回は先日RCサクセションの1981年武道館公演と1983年の渋谷公会堂公演という2本の映像が配信されまして、そのあたりの話が中心になります。よろしくお願いいたします。
まず、梅津さんが、RCサクセションのサポートに入る前のお話をお聞かせください。

梅津和時(以下梅津):ニューヨークから日本に戻ってきて、八王子のジャズ喫茶、アローンという店がありまして、ここでバイトをしつつ、週2回の演奏をしていました。その店には日野高校で清志郎と同級生だったギタリストの阿部昇君も出ていて、彼から、「清志郎が今ヒマで、彼がリハーサルバンドみたいなものをやりたいと言っているけど、やらない?」と言われて。それで、「やるやる」と即答しました。
当時清志郎のことは、よく知っている訳ではなかったですが、その名前は一応知っているし、『シングル・マン』のアルバムも好きでしたから、「喜んでやらせてもらいます」ということで。それが初めての出会いですね。多分77、78年ぐらいだったと思います。



― RCサクセションが『シングル・マン』をリリースして、その後、なかなかレコードを出せずに評価されていなかった時期ですね。

梅津:「ぼくはタオル」(干されている)のような状態だったと思います(笑)。

― 当時のRCサクセションにはどのような印象を持たれていましたか?

梅津:基本的にはフォークバンドだと思っていました。ロックのイメージではなかった。だから多分一緒にやることはないだろうと思っていたんだけど、阿部君からの誘いでオーティス・レディングのようなR&Bモノをやりたいと聞いていたので、「じゃあホーンはいるよね」という格好で。清志郎がオーティスも好きでしたから。それで喜んでやらせてもらおうと。

― 『シングル・マン』はタワー・オブ・パワーが参加されていますよね。

梅津:うん。入っていますね。

― そこでお気に入りになったとか?

梅津:いや、当時アルバムはヴォーカルを中心に聴いていたかもしれません。清志郎が書く曲が面白いなとか。RCサクセションはユニークな小節やコード進行があって、曲を書いている清志郎も変わった人だなと思っていました。

― 売れるバンドだと思いましたか?

梅津:当然売れなくてはいけないと。「なぜこれが売れないの?」と思っていました。『シングル・マン』が売れていないと聞いて、「え? そんなわけないでしょ」と。

― やはり、感覚が早すぎたのでしょうか?

梅津:どうでしょう? 清志郎自体が『シングル・マン』をどのくらい評価していたかは分かりませんが、私はああいうアレンジがすごく好きだから。

― それで一緒にスタジオに入られて、その時はどのような編成でしたか?

梅津:全員が後のRCサクセションのメンバーというわけではなかったです。阿部君がバンドのリーダーで、清志郎がいて、キーボードにGee2wo(柴田義也 / RCサクセション)がピアノでいて、ヒロ小川というブルース・クリエイションのベーシストがいて、それからドラムスに新井田耕造君(RCサクセション)もいました。私ともうひとり秋山君という若いサックス奏者がいて、そんな編成かな。 “栗原清志とオールスターズ” という名前でね。

― どのような曲をやりましたか?

梅津:基本、R&Bをやると思っていましたが、今思うと、「君が僕を知っている」、「ダーリンミシン」、「まぼろし」など、後にRCのオリジナルになる楽曲もやりましたね。あと、「ドック・オブ・ベイ」などオーティス・レディングのカバー。それと、フィフティーズの曲があったりしました。「電話でキッス(Kissin' On The Phone)」(ポール・アンカ)を替え歌にして歌っていましたよ。

「電話でね」というフレーズがだんだん電報になって手紙になって小包になってという、すごくくだらない歌詞で(笑)。

― 清志郎さんらしいですね(笑)。
このユニットは、誰から始まった話だったのですか?

梅津:阿部君ですね。清志郎が阿部君に頼んだのではないかと思いますが、そこまでは聞いていません。

― ライブはやられましたか?

梅津:国分寺にセムイというお店がありまして、そこで2回ぐらいやったかな?

― カバーを含めてということですね。お客さんの盛り上がりはどうでしたか?

梅津:いっぱいでもないし、パラパラでもないし、程よい感じで入っていました。ギュウギュウ詰めでワーワーという感じではなかったですね。国分寺の誰も知らない場所でしたからね。
RCサクセションはフォーク界では認められていましたが、まだまだという感じで。清志郎も栗原清志という本名でやっていましたから。

― バンド編成を聞くと、後のRCサクセションの構想に近いものを感じました。

梅津:ロックになってからのRCには近いですね。ただ、リンコさん(林小和生 / RCサクセション)も破廉(ケンチ)君もいないですから、初期のRCサクセションとは違うものだし。

― そういう経緯で出会った清志郎さんの第一印象はどうでしたか?

梅津:無口なやつだなぁという感じですね(笑)。何もしゃべらないので。

― でも、梅津さんとは相性が良かったと。

梅津:いいのかどうかも分かっていなかったですね。私は一緒に演奏してすごく楽しかったですが、清志郎から「君のサックスはいいね」とか、そういう話は一切なかった。だから、久保講堂でライブレコーディングした『RHAPSODY』の前に出演依頼の電話をもらうまでは、「こいつ、俺のサックス好きなのだろうか?」と思っていたぐらいです。

― 梅津さんは、“栗原清志とオールスターズ” から『RHAPSODY』まで少し離れていた感じでしたか?

梅津:その後、私は自分のバンド、“生活向上委員会” がヒットして、結構日々忙しく過ごしていました。そんな中、清志郎から電話がかかってきて誘われたのですが、その時ちょうど自宅でバンドのメンバーが集まって天ぷらパーティをやっていたんですね。「俺、今すごく忙しいからダメだよ」と断って、さっさと電話を終わらせて酒を飲んで天ぷら食いたかったんです。それなのに「この人あんなに無口だったのに、こんなにしつこいのかな」というくらい電話を切らないんです(笑)。
「いやー、梅津さんのサックスは素晴らしいから」から始まって、「本当は黒人なんじゃないですか」とか、歯の浮くような言葉をズンズン言う。それで電話がチャボ(仲井戸麗市 / RCサクセション)に代わったり、リンコ(林子和生)さんに代わったり、電話を切らせてくれないんですよ。天ぷら食いたいのに(笑)。だから「分かった。リハーサル行くから」と、その日にちを聞いて、本番の久保講堂の日も聞いて。それでリハーサルに行きました。


何度も経験したRCサクセションのステージの中でも久保講堂は特別


― そうすると、梅津さんが呼ばれたのは久保講堂ありき、という発想からですね。

梅津:その通りです。「久保講堂のライブレコーディングがあるので」ということで呼ばれました。あのライブをアルバム『RHAPSODY』としてレコード化するというのを最初から聞いていたのか、後で知ったのかは覚えていないのですが。

― 初めてのリハーサルはどんな感じでしたか?

梅津:渋谷の並木橋にスタジオがあって、そこにチャボがいて、新井田さんがいて、Gee2woがいました。あと小川銀次がいたか。『RHAPSODY』のメンバーが揃っていたんです。最初から大歓迎でした。自分としては、半分はやる、半分はやらないという気持ちで、「ピンと来なかったらやらないからね」という気持ちで行きましたが、最初からめちゃくちゃ面白かったので!
1曲目にやったのが「ラプソディー」で、「これ、梅津さんのイントロで吹いてやってくれないか」と。ポンと譜面をもらって。
そこからですね。いわゆる、ギャーっとうるさいロックバンドでもないし、フォークとも違うし、わりと自分がやりたかった音だなと感じました。

― RCはロックンロールバンドでありながらも、黒っぽさが強調されていますよね。

梅津:そういう形態のバンドを当時は知らなかったですからね。ロックンロールバンドでサックスが入るということ自体がピンときてなかったぐらいですから。だから、そんなに何曲も吹けるの? みたいな。でも結局、全曲吹くような感じになったんですよね。
小川銀次君が辞めるので代わりに入る形になったというのも意外でした。

― そうすると梅津さんからしてみれば、あの『シングル・マン』のRCが… という感じですよね。

梅津:その前に清志郎がツンツンに髪を立てて、跳ねている姿はテレビで観ているので。「こんなになったんだ、面白いな」と思ったのは確かでした。

― 跳ねている清志郎さんは意外でしたか?

梅津:意外でしたね。“栗原清志とオールスターズ” をやった時も全然動かなかったですからね。

― そういう部分からも久保講堂に向けてのモチベーションが高まってくるわけですよね。

梅津:ですね。リハーサルの回数こそ少なかったですが、久保講堂のステージに立って、ロックバンドのライブはこんなに楽しいんだ! と思ったのは事実ですね。生活向上委員会をやっていても、ロックの時とは熱量は全然違うので。
こんなにお客さんが押し寄せてくるんだ! と。そういう経験はなかなかないですね。RCのステージは何度も経験していますが、久保講堂は特別でした。バンド側からしても「やっとここに来たぞ」という気持ちがあったんだと思います。

― それは梅津さんが初めて体験したロックのステージでしたか?

梅津:はい。初めてでした。

― それで久保講堂を経てRCとずっと一緒にやってもいいかなという気持ちになられたのですね。

梅津:スケジュールが合うものは全部やりたい! となりました。

― 世の中的には『RHAPSODY』でRCを知る人が多かったと思います。

梅津:その『RHAPSODY』に行くまでに、屋根裏(渋谷にあったライブハウス)で応援していた人たちがいたのは確かですから。でも、僕はそういう人たちがいることを知りませんでした。
久保講堂では、私は自分のバンド(生活向上委員会)の宣伝もあって、“生向委”という旗を立ててやったりとか、ニッカポッカを履いたりとかヘンなことをしていました(笑)。

― 久保講堂が80年の4月で、6月に『RHAPSODY』がリリースされて。実際に盤を聴いた時はいかがでしたか?

梅津:直しも何もないので怖いなと思いましたが、意外といいなと思いました。

― 僕もほぼリアルタイムで『RHAPSODY』を聴いて、「ロックバンドってこういうものなんだ」というのを子供なりに感じました。

梅津:でも、日本のロックバンドという感じはしなかったかな? とも思います。

― 実はそうなんですよね。

梅津:ロックンロールというと、それまでにキャロルとかあったけれど、それまでとは違うアプローチだったので。

― 『RHAPSODY』が売れる確信はありましたか?

梅津:久保講堂でワーッとなった時から、「これは確実に売れるわ」と思いました。

― そこから行動を共にするわけですよね。

梅津:最初の1年間は行けるライブといけないライブがあって。私は海外に行ったりもしていたので、その時は生活向上委員会の片山(広明)君に入ってもらったりもしていました。そうしているうちにバンドの経済状態も良くなってきて、「せっかくだから二人ともやりなさいよ」と。そして武道館の時は、「せっかくやるなら生活向上委員会のホーンセクションを全部入れよう!」となりました。

アレンジがどんどん変わってゆく。『RHAPSODY』以降のレコーディング事情




― 一緒にやるようになってRCのメンバーはどのようなキャラクターでしたか?

梅津:全体的にみなさん無口で、静かな人たちですが、フレンドリーであることは感じていたのでとても楽でしたね。

― チャボさんも無口な感じでしたか?

梅津:自分から話してくるタイプではなかったですね。礼節を大事にする方でしたね。自分は一応年上なので、“タメ口”という人はいなかったですね。
清志郎とかは、冷やかす感じで先輩に扱っていた感じもしましたね。年寄り扱いもされましたし(笑)。

― 『RHAPSODY』の後はずっとホーンセクションが入るバンドの形態になって、レコーディングもずっと一緒ですよね。

梅津:その先の『BLUE』とかずっと一緒ですね。レコーディングも楽しかったですね。『RHAPSODY』以降のレコーディングはホーンが二管以上になるので、ある程度譜面も書かなくてはいけなくなる。アレンジも任せてもらえました。アレンジを持って行ってNGが出たことはなかったですが、リハーサル中にはどんどん書き変えました。
まず、リハーサルを並木橋でやりますが、バンド自体のアレンジがリハーサル中にどんどん変わっていくんですね。例えば、リンコさんが「新しいベースのフレーズを考えて来たんだけど」とやり出すと、今度は新井田さんがドラムのパターンを変える。それで、最終的には全員の音が変わっていく。すると、俺書いたものが全然合わない(笑)。となっていくから。だから、いつからかは、最初のリハーサルには行かなくなりましたね。

― それはいつぐらいからですか?

梅津:『BEAT POPS』の頃は完全に後から行っていたのかな。『BLUE』はずっと一緒だったのですごく時間がかかりました。本当はこういう作り方が贅沢でいいんでしょうね。その場で「どうする? どうする?」と変わっていくのが。

― 音は生き物だから、どんどん変わって完成形が僕らに届くという。

梅津:だから、レコードには入っていない我々のセクションのアレンジがあったかもしれないし。

― レコーディングと並行して、ライブの本数もかなり多かったと思いますが、レコーディングで固まる前のスタイルで楽曲を披露することもありましたか?

梅津:それもあったのかな? でも大体はレコードを作って、それを売りたいわけだから、販売しながらツアーをやっていたと思いますよ。

― この間配信された83年の渋谷公会堂のライブも『OK』からの選曲がいくつかありました。確か発売の1週間ぐらい前のライブでした。あの時は「お墓」とか、リリース前の曲も結構盛り上がっていました。

梅津:「お墓」とか最初はどちらかというと、フォーク系の感じで作られていたと思いますが、あれをレゲエにしてみようと。誰が言い出したのかは覚えていないのですが…。

― RCサクセションというバンドは、『RHAPSODY』があって『PLEASE』があって、その頃から色々な音楽を取り入れて変化していったと思いますが、その変化を梅津さんはどのように捉えていますか?

梅津:『PLEASE』までは、それまでやっていた楽曲をアルバムに収めていたんですよ。その先は新曲が多くなってくるので、最初から組み立てて作っていきました。

「何、コイツ天才?」一晩で出来上がった「トランジスタ・ラジオ」




― 梅津さんがRCのレコーディングに関わって思い入れのある楽曲は何ですか?

梅津:「トランジスタ・ラジオ」で一番びっくりしたのが最初C#(シャープ)のコード進行の曲が出来て、歌詞が出来ていなかったんですよ。歌詞がないからGee2woなんかと気楽にやりながら、「C#って難しいからドミソ系で作っちゃえ」とか、わーいとか楽しんでやっていて、それを清志郎が持ち帰って、翌日には完璧に出来ていましたから「何、コイツ天才?」と思いましたね。タイトルも最初は「トランジスタ・ラジオ」じゃなかったしね。
リハーサルからレコーディングまで一緒だから分かるのですが、最初の歌詞ではないものにどんどん変わっていって意味が深くなっていくものがあったりもして。

― 清志郎さんは曲と歌詞を一緒に作るのですよね。

梅津:はい。作りますね。

― それがどちらも変わっていくということですよね。

梅津:あいつは日本語にすごくこだわった歌い方をしていたと思うので、メロディが先に出来ているからと、それに言葉を合わせていくという作り方ではないので。言葉によってメロディも変わっていきますよね。

― 歌詞でも共感できる部分が多いですか?

梅津:かなりありますね。特に初期の曲なんかは。あいつの不遇の時の歌詞って面白かったので。「いい事ばかりありゃしない」とか、「タオル」とか大好きだったし。「ぼくはスルメ… カラカラに干されて あきらめても干されて でもまた干されてる」とかさ。すげーなって思います。

― シンプルな表現だけど深い意味を感じます。

梅津:あとは絵を感じさせても、直接的に表現できないものもたくさんあるだろうし。それもすごいなぁと思いますね。

― 聴く人によって捉え方が様々というのが素晴らしいと思います。

梅津:「電話で愛を語ろう」という歌詞が最終的には「公衆電話でおまえと慰め合う」になった曲(「トラブル」、アルバム『BEAT POPS』に収録)があったと思いますが、昔の公衆電話ってガラス張りの電話ボックスですからね。めちゃくちゃエロい歌詞になりますよね。でも、ただ電話で愛を語りあっている歌詞をそこに持っていくんだ、と思った時は、すごいな! と。

(取材・構成 / 本田隆)


次回予告
当時年間100本というライブをこなしていたRCサクセション。次回は、ツアー中のエピソードや久保講堂から武道館まで駆け登っていくバンドのリアルな姿をたっぷりと語っていただいています。


【 よみがえる!伝説のコンサート 】 
RCサクセション伝説のライブが2本立てで配信!
81’日本武道館×83’渋谷公会堂

ご好評につき、8月31日まで延長することが決まりました。

▼ 配信サイト:以下よりお好みの配信サービスをお選びいただき、詳細ページをご確認の上、チケットをご購入ください。
PIA LIVE STREAM / NHKグループモール

まだ、配信をご覧なられていない方はこの機会にぜひ、ご覧くださいませ。
(一度チケットをご購入いただいたお客様につきましても前回のチケットで8月31日まで配信をご覧いただけます。)

RCサクセション “KING OF LIVE” への道のりを徹底特集!

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2022.08.23
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