“渇望” と “熱情” で成り立っている東京の音楽シーン
十代の頃も東京住みだったおかげで、大好きな音楽はいつも傍らにあった。クチコミで伝わってきたバンドのライブにはすぐに出かけることができたし、『宝島』『DOLL』『FOOLS MATE』などの雑誌のおかげで話題になってるレコードは、品揃えが豊富なレコードショップですぐ入手することができた。おかげで、BOØWY、ザ・ブルーハーツ、レピッシュ、ザ・コレクターズ、スピッツなどはブレイク前からその雄姿を目の当たりにすることができた。
これはすごくラッキーなことだけど、何かが物足りなかった。それがはっきりと分かったのが、高校を卒業して、ライブハウスやツバキハウスなんかのディスコで音楽を通じた友達ができた時だった。彼らは、大学に入学する、あるいはフリーターをやる、という名目で上京してきていた。しかし、それはあくまでも “名目” であり、大好きな音楽に触れるため、シーンの当事者になるための上京だった。
そんな友達と寂れた居酒屋で、はたまたライブハウスの外階段で、僕は毎日毎日一晩中音楽の話をしたのだが、彼らの “渇望” には絶対かなわないなぁ… と心底羨ましかった。僕が当たり前に接していた音楽に対する思い入れは、彼らの方が数段上だったように思い出す。
ライブハウスでブルーハーツを観る、西新宿の輸入盤店でクラッシュのレコードを買う、ツバキハウスのロンドンナイトにめいっぱいお洒落して出かける。そんなありふれた光景が彼らにとってどんなに待ちわびた時だったか! 話を聞くたびにその熱情に何度も胸が熱くなった。
考えてもみれば、東京の音楽シーンというのは、そんな “渇望” と “熱情” で成り立っている。広島から夜行列車に飛び乗り、横浜に降り立った矢沢永吉から始まり、岡山出身の甲本ヒロトは、ザ・ブルーハーツでパンクシーンから飛び出し瞬く間に全国シーンへと飛び立った。80年代を代表する国民的バンド BOØWY は高崎出身だ。彼らの東京という街に対する覚悟が音楽シーンを作っていったと言っても過言ではない。
フェスの先駆け、仙台ロックンロールオリンピック
かつて、ロック不毛の地とまで言われた東北の音楽ファンもそんな渇望の中上京し、シーンを目の当たりにしてきたと思う。そのロック不毛の地でバンドブームのはるか前に活性化を目論みフェスの先駆けとなったのが、1981年から1994年まで、仙台のスポーツランドSUGOの特設ステージで開催された『ロックンロール・オリンピック』だ
初回の1981年にはスポンサーもないままにハウンド・ドッグの大友康平が音頭をとり、同年8月9日、ハウンド・ドッグ、ARB、RCサクセションという3つのバンドが集い開催された。
当時のハウンド・ドッグといえば「浮気な、パレット・キャット」でのブレイク前、シンプルでノリのよいロックンロールを身上とするバンドだった。同じく、パブロックの影響の強かったARB、ローリング・ストーンズスタイルのロックンロールバンドに華麗なる変身を遂げ「雨あがりの夜空に」、「トランジスタ・ラジオ」をリリースした後のRCサクセション… と、まさにロックンロールを具現化した3つのバンドが集結していた。
骨のあるロックンロールバンドが集結!
1982年3月11日に開催された第2回では、ハウンド・ドッグ、ARB、子供バンド、チャボ&梅津和時ホーンセクション、ザ・ルースターズが参加している。
なるほど。骨のあるロックンロールバンドばかりが集結しているではないか! つまり、当時の大友康平は、お金のためではなく、音楽業界に寄り添うためでもなく、ロックファンの渇望と真摯に向き合い、東北の地にロックンロールを根付かせようという純然たる気持ちでこのフェスを立ち上げたんだな… というのがリアルに伝わってくる。
十代の終わり、僕は夏になると青春18きっぷを買って気ままに北海道を周っていた。上野駅から始発電車の東北本線に乗ると、夕方にはみちのく路にたどり着く。しばらくすると周囲の田園風景は漆黒の闇に包まれ、この季節の風物詩である祭ばやしが漆黒の向こうからたまに聞こえてきたりしていた。そんな地にもロックを渇望し、待ちわびた時を夢見るロック少年、少女が大勢潜んでいたことを考えると今も感慨深い。「この地にロックンロールを!」という大友康平の野望は、時空を超えて今も僕の胸を熱くする。
『ロックンロールオリンピック』の特設ステージには観客席を真っ二つに分けた花道があり、そこを走り抜けるアーティストはロックの象徴であり、この花道の先にはニッポンのロックンロールの果てしなき未来が輝いているように思えた。
しっかりと芽吹いていったハウンド・ドッグ(大友康平)が蒔いた種
先日、1988年に開催されシーナ&ザ・ロケッツが出演した際の映像を YouTube で見つけた。女王然と腰をくねらせながら熱唱するシーナと、レスポールを抱え走り抜ける鮎川誠もまた、東北の地にロックンロールの本質を見事に叩きつけていた。
このフェスの中心的存在であったハウンド・ドッグは、東京のマザーエンタープライズに移籍したため第3回以降は出演していない。しかし、彼らが蒔いた種はしっかりと芽吹き、1994年の第14回まで、メジャー、マイナー問わず、ロックンロールの未来を担った数多くのバンドが出演し、熱狂の渦に巻き込んでいった。
1993年にはボ・ガンボス、ザ・ヴィンセンツ、たま、ザ・ブーム、ザ・プライベーツ… 1994年最後の年を飾るステージには忌野清志郎、ザ・イエロー・モンキー、ダイアモンド☆ユカイ、ニューロティカなどが出演。折しもバンドブームの終焉の年だった。これ以降、日本の音楽シーンは多様化され、日本全国、流行り廃りに関係なく、ロックンロールが鳴り響くようになっていく。
『ロックンロールオリンピック』は、その役目をしっかり果たし、シーンの活性化、橋渡しを完了した時点で終焉かと考えるとなんとも皮肉なものだと思ったりもする。しかし、東北のロック少年、少女がこのステージの熱狂を胸に、ロックへの渇望を胸に、東京へと向かったはずだ。夢を語り、ロックを語り、そしてそのままオトナになって、今を生きる人も少なくないだろう。
※2019年8月9日に掲載された記事をアップデート
2020.08.09