1976年 4月21日

KING OF LIVEまでのRCサクセション!森川欣信&宗像和男インタビュー ①

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日本のロック史を語る上で欠くことの出来ないRCサクセション伝説のライブ2本が8月6日より配信される。名盤ライブアルバムとして知られる『RHAPSODY』をリリースしてから1年半という時期に行われた日本武道館公演と、彼らの絶頂期とも言える1983年の渋谷公会堂公演。つまり、この2本のライブに投影されるRCサクセションはまさに “KING OF LIVE” の称号に相応しい風格だ。
RCサクセションがKING OF LIVEまで昇り詰めるまで欠くことの出来ないキーマンが二人いる。当時彼らが所属するキティ・レコードでプロモーター、ディレクターとして深く関わり、濃密な時間を過ごした宗像和男氏と森川欣信氏だ。
今回は、ハード・フォークと言われたRCサクセションが5人編成のグラマラスなロックンロールバンドに変貌する転換期、当時の熱狂と、昇り詰める過程に何があったのかを余すところなく語っていただきました。

ハード・フォークの時代。すごい衝撃だった3人組のRCサクセション




森川欣信(以下森川):僕は16歳の時にアマチュアだったRCサクセションとたまたま出会っているんです。その時の彼らは3人組。彼らは僕よりひとつ年上なので、同じ世代、高校生ですね。TBSのアマチュアバンドが出演する『ヤング720』という番組のオーディションでした。その何日か後で彼らが『ヤング720』のアマチュアバンドコーナーに出演してTV放映されたんです。ブラウン管を通してその声に衝撃を受けたのが最初です。当時国内だと、ザ・フォーク・クルセダーズというバンドに衝撃を受けていて、その次に清志郎たちを観てショックを受けたんですよね。

― 当時のRCは、ウッドベースを使った形態でやっていたと思いますが、どの部分が他のミュージシャンと違い、衝撃的だったのですか?

森川:彼らのライブを観たのはその数ヶ月後。東芝(東芝音楽工業)の『カレッジ・ポップス・コンサート』というアマチュアバンドコンテストでした。やはり、あの声が凄かったのと、3人のアンサンブルですかね。ベースと、ギター2本、清志郎のメインボーカルに破廉ケンチとリンコ・ワッショー(林小和生)のハーモニーがあるわけですよ。破廉ケンチは左利きでしたから、ビートルズみたいに、左右にギターのネックが伸びてステージでのバランスがすごく良かった。ウッドベースのリンコさんが真ん中にいて。
彼らはそのコンテストで確か3位に入賞。そして翌年の3月にRCサクセションは「宝くじは買わない」でデビューします。
だけど、ラジオから流れて来るその音は拍子抜けでした。ライブで観た時の3人はもの凄いパワーがあって、当時のPAシステムは大したことないのですが、音が塊になった圧倒的なアコースティックでした。

― 僕らが聴いている「宝くじは買わない」ですね。

森川:そうです。レコードでは、オーバーアレンジされてしまっていてむしろ物足りなかった。本来僕がライブで観ていたものとは違っていた。「あれ?なんでこんなになってしまったんだろう?」と思ってしまうぐらいに。ただ、そこに清志郎の独特の声は存在していましたが。
それから1年ぐらい経って、たまたま渋谷のジァン・ジァン(小劇場渋谷ジァン・ジァン)の前を通ったら、「本日の出演、RCサクセション、植木ひろし」と書いてあったんです。植木ひろしというのは、植木等さんの息子さんですね。そこで、彼らの今まで僕が知らなかった曲を聴きました。初めてなのに一発で覚えてしまうほどインパクトがあって…「2時間35分」とか「言論の自由」「ぼくとあの娘」…。まだリリースされてないのに忘れられなくなる程もう凄まじいぐらいでした。

― レコードとしてパッケージされたものとは全然違っていたのですね。

森川:全然違っていました。あんなバンド見たことないくらいでしたね。それで、当時僕もバンドをやっていたので、2回学祭でRCサクセションと一緒にやったことがあるんです。当時はエレクトリックなシステムはチープだったしあまりなかったから、大概アコースティック、フォーク全盛ですよね。彼らもアコースティックでしたが、なんか爆音なサウンドのイメージ。最初から清志郎の言葉がハッキリと聴こえる独特なあの声が極めて特徴的でした。それでも清志郎は、日本語をすごく丁寧に歌う人。どんなにシャウトしようが、裏声になったとしてもあの人の日本語は、ハッキリ丁寧に聴こえるし 突き刺さると言うか。

― 清志郎さんのヴォーカリストとしてのスタンスは、その頃からずっと変わらなかったわけですね。

森川:そうですね。ただ、その後5人のRCになりますよね。あれになる前の清志郎の方が、もっと声が凄かった。
逆に拒否反応示す人も結構いた。

― いわゆるハード・フォークと呼ばれていた時代ですね。

森川:あの頃、僕の周りはみんな「あのダミ声が凄い」と言っていました。だけど、5人になってからは、あの声に艶が出た。時に切なくて哀愁が増すというか。良い意味で聴きやすくなっていました。仲井戸麗市なんかが加入してからのことですが。
その後RCもいろいろな場所で観ていたのですが、破廉ケンチが抜けて、リンコさんともうひとりドラマーが加わった3人でエレクトリックな編成になっていました。『シングル・マン』がリリースされた時期です。僕はこのアルバムがすごく気に入って、新宿ロフトに観に行きました。お客さんが全然いないところでやっていて。
『シングル・マン』のアルバムとしてのクオリティは素晴らしいけれどライブでの彼らは覇気がないというかね。『シングルマン』に入っている曲なんて全くやらないんですよ。知らない曲ばかりやるんです。それでも3人で「よォーこそ」とかやっていましたよ。「ボスしけてるぜ」もその時初めて聴いたけど、一度聴いただけで心に残る。だけど、その反面、彼らはもう終わっていくだろうな… とも思いました。裡にこもっていると言うか。客を無視している。客だってほとんど彼らを観に来ているわけじゃなかった。ただの酔っ払い客の前でやっている感じでした。それは、1976年か77年だったと思います。勿体無いけど、彼らはこの先受け入れられないまま終わっていくのだろうと。
その翌年78年に僕は中途採用でワーナーに入ったんです。制作部にいたのですが、その時古井戸の加奈崎(芳太郎)さんのソロアルバムを先輩のディレクターが作っていました。失礼ながら、古井戸はまだやっているんだと。つまり、RCも古井戸も既にいなくなったと思っていたから。

― あの時代の移り変わりも含めてということですよね。

森川:そうですね。そこでRCの話が出ました。「RCは屋根裏(渋谷で創業されたライブハウス)で、鉄カブトかぶってパンクやっているよ」と言われたので、「それは面白い! 清志郎らしい」と思いました。するとそこに偶然、清志郎が入ってきた。当時清志郎は、加奈崎さんに曲を書いているから。面と向かって話したのはその時が初めてでした。だから思いの丈を彼に伝えたわけです。「あなたの大ファンです。今どうしているのか?」、たたみかけるようにそんな話をしたから清志郎はちょっとビックリしたみたいで。今、屋根裏でこういうことをやっていて、全然俺たち相手にされていないけど、よかったら屋根裏に観に来ないか? と誘われて。だから観に行きました。言われなくても行ったと思いますが。そしたら、その時に仲井戸麗市が入って、もうひとりマキオズ(カルメン・マキ&OZ)にいた春日(博文)が入って、5人のRCになっていたんですね。リンコさんがいて新井田耕造がいて。

ディレクターとしてRCをやりたい。その一心で運転手としてキティに入社


― 『RHAPSODY』の時と同じバンド編成になっていたわけですね。

森川:なっていました。曲も『RHAPSODY』の頃と同じようになっていました。
そこで「ボスしけてるぜ」を聴いた時に以前ロフトで聴いた曲!だと思いました。つまり一度しか聴いたことの無い曲でも清志郎が歌うと、ずっと心に残っていると言うことです。
この屋根裏で僕が知らない新しい曲もいっぱい聴きました。
だから、本当はワーナーでRCをやりたかった。でも、よくよく話を聞いてみたらキティと契約があると。実はキティの方にも話に行ったことがあるんです。「ワーナーでやらせてくれないか」と。
当時僕は契約ディレクターでしたから。ところがすぐその後、契約が切れてワーナーを離れることになったんです。それで次はどうしようかとなった時に、いろいろレコード会社を紹介されていましたが、僕の上司にキティをよく知っている人がいて、その人からキティの多賀(英典)社長を紹介してもらったんです。
そこで、多賀さんの運転手ということでキティに入りましたが、免許を持ってないから(笑)。でもRCがやりたいという熱意を多賀さんは理解してくれて、「明日からRCについていいよ」と言ってくれました。その時に清志郎たちは「ステップ!」と「雨あがりの夜空に」「上を向いて歩こう」の3曲を既にデモテープで録音していました。そこからですね、関わりが始まったのは。それが79年の3月、4月ぐらいからです。

― 宗像さんはRCと関わるようになったのはいつぐらいからですか?


宗像和男(以下宗像):僕がキティに入ったのは、1975年の1月でした。あの頃のキティは、海外でレコーディングしたりとか、海外のアーティストを日本に呼んで、日本のアーティストと一緒にやるというか。多賀さんをはじめ周囲の人たちは洋楽で育っているというのもあって、「向こうのレコードを聴けば、こんなに凄いスタジオミュージシャンがいる。だから日本のミュージシャンと一緒に出来ないか」というのを夢に描いていて、どんどん積極的に交渉を行っていました。そこで僕が多賀社長に与えられた仕事というのが、国際部でした。海外との交渉というか、実際レコーディングが決まれば通訳で付いて行く。当時は1年のうち、7ヶ月か8ヶ月は海外にいるみたいな状況でした。だから日本で何が起こっているか、キティで何が起こっているか、ほとんど知らなくて。
76年かな? 久しぶりに会社に行ったら「スローバラード」のドーナツ盤が山のように積んであって(笑)、しばらくは全然音も聴かずにいました。
その後1年間、ハリウッド、フランスなどに行って日本に戻ったのが79年の夏ですね。会社で事務をやっている時に、カセットでかかっているデモテープが聴こえてくるんです。それが、耳にこびりついて離れずに「何なんだ!」と。
僕は子供の頃から洋楽しか聴いていなくて、当時キティには(井上)陽水がいたり、小椋佳がいたり、来生たかおなんかもいて、仕事として聴きますが、どうも日本語に違和感がある。気持ちを入れることが出来なかったんですね。それが、海外で修羅場の経験を過ぎたせいか、頭のチャクラが開いたみたいになって、そこにスッと入ったのが、そのデモテープでした。
そのデモテープをかけていたのが森川で、「ステップ!」の次のシングルを何にするかということでRCサクセションのデモテープを聴いていたというわけでした。
それがなんと「雨あがりの夜空に」だった。それで、「何だ? コイツは?」と森川に聞いたら、RCサクセションというバンドで、キティで「ステップ!」というシングルをリリースしたけれどあまり売れなくて…と。
それで、「ライブは観れるの?」と聞いたら「渋谷の屋根裏という場所でやっているから観に行きませんか」と。それで翌週、森川に連れられて行きました。

「よォーこそ」で始まる渋谷屋根裏のステージとシングル・マン再発売実行委員会




― 屋根裏はキャバレーの上にありましたよね。

宗像:ですね。入ろうとすると、キャバレーの呼び込みから「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って誘われるから、なかなか入りにくい場所で(笑)。それが1979年の夏の終わりぐらいだと思います。
フロアに入ると椅子が置いてあって、お客さんは始まるのを待っていた。30人とか40人ぐらいだったと思います。それで開演の時間が来て、バンドメンバーが現れる。
そして、清志郎が現れて、「よォーこそ」で始まる。それで、最後のアンコールが「指輪をはめたい」かな。2時間半ぐらいか。1部、2部と2回のステージでしたが、とにかく腰を抜かしてしまって…。冷や汗が出るというか…。清志郎が歌おうとしていること、それが全部ビジュアライズできる。清志郎の心の動きも全部わかる。すごい衝撃でした。
それで、翌朝、社長室の多賀さんに会いに行って、「多賀さん、国際部の仕事は置いておいて、RCの担当にしてください!」と直訴したら、「やっていいよ」と言われて(笑)。それで「特別宣伝マン」という肩書きをもらいました。森川が制作で僕がプロモーションを担当。宣伝の経験は今まで一度もなかったのですが、とりあえずは、RCがどれだけ凄いかというのを外に出て行っては喋りまくるという。周りの人は辟易としていましたけど(笑)、それが2年半。ちょうどその時に音楽評論家の吉見佑子がRCを好きらしいという話を聞いて。
彼女とは、カルメン・マキ&OZのロサンゼルスレコーディングがあって、その時知り合っていました。なので「吉見に相談してみようかな」となって、会いに行きました。すると、彼女はRCのことをフォークの時から知っていたみたいで。
だけど、当時RCはアルバムを出していなかった。アーティストの宣伝というのは、アルバムを出していないと、なかなかメディアは動かない。シングルだけでは記事が取れないという状況があって、吉見も「アルバムがないとねぇ」と言っていて。そこで、『シングル・マン』はどうなったの?という話になって。「もう廃盤になっているみたいですよ。あんなに良いアルバムなのに」と。それで、吉見がいろいろな人と相談して、廃盤復活とか言って騒いでみたらどうなの?というアイディアをもらって、「シングル・マン再発売実行委員会」が始まったのです。

宗像:吉見と親しくなって、彼女が再発実行委員会を立ち上げて、僕が事務局長になり、『シングル・マン』の発売元のポリドールと交渉したり、レコード店と交渉したりとやっていました。そのちょうど後ぐらいに吉見がどこかの雑誌に清志郎のコメントを書いてくれて、「私は清志郎が天才だと思う。歌詞が素晴らしい」と。ただし、「スローバラード」の歌詞の中に「僕ら夢を見たのサ、とってもよく似た夢を」ってあるじゃないですか。吉見が言うのには、従来のフォークの歌詞だと「僕たち同じ夢を見たのさ」となるところを、清志郎は「…とってもよく似た夢を」歌うから、聴く方にとってはものすごく不安を掻き立てる、と言うんです。そこに清志郎たちがなかなか売れていかない理由があるのでは? と。
売れているフォークだったら、誰が聴いても解りやすい歌詞というのがあったと思う。

― 「…よく似た夢を」という部分に僕はリアリティを感じました。

宗像:でしょ。そうですが、吉見は「多くの人の深層心理では不安を掻き立てるのでは? 」と書いていたので、今読むと、なるほど! と思うところはあります。

森川:『シングル・マン』の制作は社長の多賀さんだよね。

宗像:それで思い出したけど、「多賀さん、そう言えば、陽水とか小椋佳だとか、あれだけ大変な人たちをよくヒットさせたと思いますが、どうしてRCはダメだったんですか?」と聞いたのね。すると「宗像、あいつらは3人なんだよ」と。
要するに陽水でも小椋佳でも毎日説得して、タイトルひとつにしても深夜2時、3時まで話し合っていた。売れるためにはこうしなきゃいけない、日本では少しダサくないと売れないからと。陽水とかも格好良くて洗練し過ぎているから、それをもっとダサくしようと。もちろん、アーティストはみんな嫌がるわけですよ。だけど、多賀さんはそうやってヒットまで持ち込んだ。
多賀さんにとっては、どんなに良い音楽でも売れなくては意味がないと。やる以上は勝たなくてはいけないという人だから。勝つためにはどうするのか? という論理ですよね。多賀さんは「スローバラード」に惚れていた。それでアレンジのことなど、メンバーが嫌がることを色々説得して、説得して、清志郎は「明日からやりましょう」と。それで翌朝、破廉ケンチ出てきて、同じ話をする(笑)。
要するに3人説得しなければならない。自分には、そういうエネルギーはないから、「好きにやれよ」と。結局はメンバーに任せるようになってしまった。

スローバラードのラジオスポット。当時の金額で2000万円


森川:72年初頭、RCは3枚目のシングル「ぼくの好きな先生」で1回ブレイクします。あれは、深夜放送の番組で人気に火がついた。しかし、その時期、東芝からたて続きにリリースされたアルバム『初期のRCサクセション』と『楽しい夕に』はどちらもやはりオーバーアレンジ気味で面白くない。彼らもレコーディング作業ってものが上手くモノに出来てなかった。相変わらずライブの方がずっと良いんですね。それで結局、「ぼくの好きな先生」のその先にはステップアップ出来なくて、彼らは消えていった…。そしたら75年か76年の夜中、ラジオから「スローバラード」がものすごく大量に流れて来た。つまり、『シングル・マン』がリリースされた。その先行シングルが「スローバラード」だったから。後で知ることになるんですが多賀さんの思い入れで、大量のラジオスポットを打ったようです。

宗像:当時の金額で2000万円。今の金額にすれば1億でしょうね。

森川:それもあって、僕は、RCがまだやっていることを知りました。そして『シングルマン』をリリースするわけですけど、ツアーをやるわけでもない。それ以外の宣伝活動も大してしていなかったと思う。その時、破廉ケンチは辞めているし、ほったらかしみたいな状態になっていたようです。 当時、僕とRCの接点は『シングルマン』のレコードだけだったわけです。
そんな状況の後に彼らを観たのが77年のあの悲惨な新宿ロフトのライブだったわけです。

― 社長の多賀さんもそうですが、当時のキティの社員だった方に、スタッフはみんなRCが大好きだったと聞いたことがあります。それは、ブレイクする前、森川さんが失速したと思われた時期もみんな大好きだったと。

森川:いや、『シングルマン』の頃とかほとんどの人がRCのことは忘れていたと思います。もはや誰も期待してなかった。
キティのスタッフでさえRCに興味を持ち始めたのは僕と宗像さんが騒ぎ始めた頃からだと思います。

宗像:1979年の終わりぐらいになると、みんなで屋根裏に観に来てくれたりしたよね。面白かったですね。

― 当時はスタッフが清志郎のように化粧をしてプロモーションをしていたとか。

森川:僕は、ちょっとしていました(笑)。最初の頃ね。でも僕なんかがすると気持ち悪いんだよ。癖毛だから髪の毛が立たないし(笑)。

宗像:RCの素晴らしさを何度説明してもなかなか通じなくて。「ぼくの好きな先生」のRCでしょ… で話は終わってしまう。ライターにしても編集者にしても、テレビ、ラジオの人にしても、今売らなくてはならない旬のアーティストがいっぱいいるわけですよ。RCがいくらロックになったとしても、それを前に押していくのは難しいと分かっていたから、「そんなこと言わずに是非観てください」と。観た人は絶対協力してくれるだろうという確信はあったからライブに連れ出すしかないと。それで、3ヶ月、4ヶ月はそればっかやっていました。

(取材・構成 / 本田隆)


次回予告:ブレイク前夜のRCサクセション、ブレイクポイントだった1980年2月の渋谷公会堂公演、そしてライブアルバムの金字塔『RHAPSODY』までの道のりをお二人にたっぷり語っていただきます。


※編集部よりお知らせ


〜RCサクセションデビュー50周年プロジェクト Presents〜
RCサクセション「FIRST BUDOHKAN’81 and SUMMER TOUR’83 渋谷公会堂」Supported by ぴあ50th

初の武道館公演(1981)の爆音上映会が、2022年5月、東京・大阪・名古屋・札幌の4か所で開催され、その圧倒的なパフォーマンスと臨場感に多くの観客が歓喜!
この度、同公演に、渋谷公会堂での名演(1983)をプラスした、伝説のライブ2本立てが、配信決定しました!

▼ 配信日時:2022年8 月6日(土)18:00~ 約4時間予定
▼ 見逃し配信期間:2022年8月15日(月)23:59まで
※ライブ配信チケットをご購入の方は見逃し配信もご覧いただけます。
※期間中は何度でも視聴可能です。
※チケット販売は2022年8月15日(月)11:59まで

▼ 配信サイト:以下よりお好みの配信サービスをお選びいただき、詳細ページをご確認の上、チケットをご購入ください。
PIA LIVE STREAM / NHKグループモール

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2022.08.05
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