80年代、最初に井戸を掘った10組のアイドル
男女問わず80年代アイドル研究はライフワークのひとつだ。だからこそ、好きなアイドルを10組並べるのも芸がないと考え、ここではアイドル史を俯瞰しつつ好き嫌いをできるだけ排除して、「のちのアイドル界、音楽界、エンターテインメント業界に影響を与えた80年の女性アイドルトップ10」というテーマを設定し、最初に井戸を掘った10組を選びたい。
第10位:宮沢りえ
80年代アイドルシーンにピリオドを打った人物――
CMやテレビドラマなどでの露出でアイドル的な人気を獲得し、すでに “次世代のトップアイドル”のような見方をされていた宮沢りえが、小室哲哉が初めてトータルプロデュースを手掛けた「ドリームラッシュ」で歌手デビューを果たしたのは1989年9月のこと。
そのデビュー曲は発売直後に『ザ・ベストテン』(TBS系)のチャートにランクインしている。極めて象徴的なのは、番組最終回だったことである。同番組の終了自体がひとつの時代の終わりを示しているといえるが、さすがに最終回は注目度が高かった。そこに出演となれば歴史に名を残すことができただろう。しかし、彼女は出演しなかった。80年代的価値観を否定したのだ。この出来事は、80年代アイドル史の最終章のクライマックスだ。
90年代の宮沢りえは、エクストリームな刺激路線を歩んだためトップアイドルでいた時間は短い。しかし、その短い絶頂期には、80年代アイドルのような歌手活動を主軸としない、新しいアイドルのあり方を示している。
第9位:荻野目洋子
所属プロダクションの繁栄を導いた大功労者――
彼女は、“ユーロビート” といった言葉が日本で使われていなかった1985年に「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」をヒットさせることで、アイドルシーンにダンスミュージックを取り入れたことでも特筆に値する。しかし、そのこと以上に、自身の商業的な成功により、のちの音楽業界に大きな影響を与えているのだ。
荻野目洋子が所属する「ライジングプロダクション」は、彼女のために設立された芸能プロだ。同プロダクションは90年代には安室奈美恵、MAX、DA PUMP、SPEEDといったダンスミュージック路線のアイドルを次々に生み、一時代を築くことになる。「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」のヒット、荻野目洋子の継続的な人気がなければ、安室奈美恵がスターにならない90年代もあり得ただろう。
第8位:三原順子
ビーイングが生んだツッパリ系アイドルの元祖――
三原順子は不良性感度を前面に押し出した80年代アイドルとして最初の成功例だ。当初は “ぶりっ子の聖子vsツッパリの順子” と、同じ80年デビューの松田聖子の対立軸として語られる存在だった。当時、「ツッパリ」は確実にひとつの大きなマーケットであり、戦略的なツッパリ路線は、その後の多くの新人アイドルが踏襲することになる。本人にその指向があったかどうかはともかく、中森明菜も「少女A」で、そのマーケットにリーチし、トップアイドルの地位を掴むきっかけとした。
もう一点、三原順子について触れておくべきことがある。32.8万枚(オリコン調べ)を売ったそのデビュー曲「セクシーナイト」は、「ビーイング」から最初に生まれたヒット曲だという点だ。LOUDNESS、TUBE、B'z、BBクイーンズ、ZARD、WANDS、大黒摩季、DEEN、T-BOLAN、倉木麻衣…… そうしたJ-POPの大きな流れの源流に三原順子がいたのだ。
第7位:森高千里
セルフプロデュースで冬の時代に備えて生き残る――
森高千里がシングル「NEW SEASON」でデビューした1987年5月、すでにアイドルのマーケットには停滞ムードが漂いかけていた。大旋風を巻き起こしたおニャン子クラブもピークを完全に過ぎ(同年9月に解散)、同じ年にデビューした多くの新人女性アイドルのなかに、“おニャン子後” の新しい波を起こせるような存在はいなかった。
どこまでが彼女の意見が反映され、どこまでが周囲のアイデアなのかは分からないが、そんな時代に森高千里は、最初から他のアイドルとは違うことをしようとした。袖をカットしダメージ加工したジージャンを羽織り、パーカッションを叩きながら歌うそのスタイルは、ある意味、冒険ともいえた。その後、彼女は2枚目のアルバム「ミーハー」に収録した同名曲より作詞を手掛けるようになり、ビジュアル面も含め、セルフプロデュースの色合いを強化。それは、アイドルに飽きていた時代に歓迎されたのだった。
女性ヴォーカリストが、(曲はともかく)詞で自分を表現するスタイルは、その後もJ-POPのひとつの潮流となっていく。
第6位:早見優
自らの趣味や特技をアイドル活動のプラスにした最初の例――
プロレスファンである、釣りが得意だ、ゲーマーである、珍しい資格を持っている、実家が飲食店を営んでいる…… 2000年代以降、アイドルたちは自らの趣味や特技、自慢できるスキル、フックになるプロフィールをアピールすることで、その方面での仕事を獲得しようとするようになった。では、こうした、アイドルのルーツは誰か?
ラジオ番組「百万人の英語」(文化放送ほか)では講師となり、英検のポスターモデルを幾度となく務めた早見優ではないだろうか。彼女は、かのライヴエイドが『THE 地球コンサート いまアフリカにおくる LIVE AID』(フジテレビ系)というタイトルでディレイ放送されたとき、東京のスタジオで外国人に英語でインタビューをする役割を果たし、音楽番組「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)の初期には、洋楽担当キャスターのようなポジションでレギュラー出演していた。
ただし、早見優は英語が話せるだけの人ではない。超激戦イヤーの1982年にデビューし、苛烈な生存競争を生き残ったメジャーアイドルなのである。そんな彼女が、他のアイドルでは真似のできないジャンルで仕事をしていたことに高い価値があったのだ。
第5位:斉藤由貴
後を追う者に明確な道筋を示した開拓者――
斉藤由貴も、後述する薬師丸ひろ子のように同時代のアイドルと同じリングに上がらないことで、確固たる人気を確立した人物である。ただし、薬師丸ひろ子よりは大衆に寄った立ち位置にいた。そんな彼女は、のちのアイドル界、エンターテインメント界に影響を残す功績を少なくとも二つ残している。
一つは主演ドラマ『スケバン刑事』(フジテレビ系)を成功させたことだ。事前の雑誌露出やCM出演で人気が沸騰していた斉藤由貴のデビュー曲「卒業」(1985年2月発売)はオリコン最高位6位のヒット曲となった。そして『スケバン刑事』に出ることで人気はますますアップし、番組は高視聴率を獲得。以後、二つの続編が制作された。『スケバン刑事』はそれ以前に、高部知子、宇沙美ゆかりといった別のアイドルが主演する話もあったという。もし、そうしたキャスティングで制作された場合、南野陽子と浅香唯はトップアイドルになっていないかもしれない。
もうひとつ、斉藤由貴は1986年に多忙な現役トップアイドルにして、NHK連続テレビ小説『はね駒』に主演する離れ業も成し遂げている。この作品は最高視聴率49.7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)のヒット作に。その勢いで彼女はアイドルとして初めて同年の『NHK紅白歌合戦』の紅組司会も担当した。連続テレビ小説のヒロインが『紅白』の司会を担当する流れは、斉藤由貴が作ったものだ。
第4位:おかわりシスターズ
メンバーの新陳代謝のある多人数アイドルグループの源流――
メンバーが新陳代謝する多人数アイドルグループの元祖は、おニャン子クラブだと考えられがちだ。しかし、さらにその源流にあるグループがいる。それが、“初代” オールナイターズである。オールナイターズとは、1983年4月にスタートした深夜番組「オールナイトフジ」(フジテレビ系)に出演していた芸能プロに属さない女子大学生集団の名称だ。そのメンバーは常に流動的で、定着したメンバーが降板する際は、「卒業」という名目で送り出された。
番組は社会現象化し、“初代” の中心メンバーはアイドル的人気を獲得。そのなかから選抜された3名がおかわりシスターズとして歌手デビューを果たした。関東ローカル、しかも深夜番組であるためファン層は限定されたが、デビュー曲「恋をアンコール」はオリコン23位に。おかわりシスターズはコンサートを開催し、フジテレビのキャンペーンキャラクターを務め、単発ながらゴールデンタイムのドラマにも主演している。
そして、その成功は番組関係者に次なる意欲的な企画を着想させる。それこそが「オールナイトフジ」のフォーマットを夕方の帯番組に落とし込んだ「夕やけニャンニャン」で、その番組でオールナイターズと同様の役割を果たしたのがおニャン子クラブなのである。
第3位:河合奈保子
インターネット時代以前に自作曲を海外に根付かせた唯一のアイドル――
松田聖子は中森明菜と対比されることが多い。しかし、松田聖子には中森明菜のいない約2年間がある。そして、その間にナンバー2のポジションにいたのが河合奈保子だ。後述するように80年代のアイドルブームは松田聖子がいたから始まったといってもいいが、同時に “聖子だけではない” こと、つまり他の選択肢があったこともブーム化した理由であろう。
河合奈保子には松田聖子にはない資質があった。彼女は多数の水着写真集のリリース、さらに水着シーンありのイメージビデオの販売などもあり、のちの言葉でいうグラビアアイドルのような役割を果たしていた。その点だけでも、パイオニアとして語るに十分だろう。
それでいて彼女は卓越したシンガーであり、ソングライターでもあった。デビュー6年目の1986年には、自身が作曲し、ピアノを演奏しながら歌う「ハーフムーン・セレナーデ」というシングルをリリースしている。あまり知られていないが、この曲は、おそらく海外でもっとも知られている80年代アイドル楽曲のひとつだ。1987年に香港の李克勤という歌手が広東語でカバーすることにより中国語圏で知られるようになり、やがて、感動的なメロディの名曲、歌唱力の高さをアピールできる鉄板バラードとしてスタンダード曲化。以後30数年間、今に至るまでいろいろな歌手に歌い継がれ、さらに、ベトナムでもカバーされ高い知名度を獲得している。
気になる方は、「月半小夜曲」もしくは「Tình Nồng」というワードでググッて欲しい。中国で、ベトナムで、男女問わずいろいろな人たちが「ハーフムーン・セレナーデ」を歌っていることに驚かされる。自作の曲を海外に定着させ、その国のエンターテインメント業界に影響を与える…… 河合奈保子はその偉業を成し遂げた日本で唯一のアイドルである。
第2位:薬師丸ひろ子
常識を打ち破り、初めて “ブランディング” を行ったアイドル――
70年代以降、アイドルはスーパーの屋上や遊園地の特設ステージで歌い、レコード店をまわってサイン会をするものだった。早朝から深夜まで、さまざまなテレビ番組の “うたのコーナー” で歌い、バラエティ番組でコントに参加し、芸能人水泳大会にも積極的に出場した。無数にあった芸能誌の取材を片っ端から受け、実話系週刊誌の表紙も飾った。
薬師丸ひろ子は、それらを全部やらなかったが、デビュー曲「セーラー服と機関銃」の累計セールスは86.5万枚(オリコン調べ)と、80年代にリリースされた女性アイドル楽曲のなかで最大のヒットとなった。
当時所属していた「角川春樹事務所」は媒体を選び、彼女が露出する機会を制限。芸能人水泳大会に出場することなど絶対に有り得なかった。そうすることで、希少価値とブランド価値を高め、ファンの飢餓感を煽った。薬師丸ひろ子は、“ブランディング” をした最初のアイドルなのだ。
第1位:松田聖子
80年代の開幕ベルを鳴らしたトップランナー――
1980年2月、CBSソニーとサンミュージックは、中山圭子という15歳の新人アイドルをその年のイチ推しとしてデビューさせた。売出しにあたり、デビュー曲にはシャンプーのCMとのタイアップが用意されていた。ところが、当該CMの商品に日本では未認可の成分が含まれている事が判明し、CMの放送は中止になってしまう。この不運もあり、中山圭子のデビュー曲は不発に終わる。実はこのとき、CBSソニーとサンミュージックはもうひとり新人を待機させていた。名前は松田聖子。両社は当初の方針を切り替え、4月に「裸足の季節」でデビューする本来は二番手扱いの彼女を、大々的にプッシュすることにした……。これが80年代女性アイドル史の第一章の最初のページにある内容だ。
松田聖子は短期間で高い人気を獲得した。2曲目の「青い珊瑚礁」、3曲目の「風は秋色 / Eighteen」はいずれも50万枚を上回る大ヒットに(オリコン調べ)。それは、引退フィーバーに湧いた山口百恵の同年のシングルのセールスを大幅に上回る数字だった。いきなり桁違いの売れ方だったのである。
同じ頃、男性アイドルシーンでは、同じような現象が起こっていた。1980年6月に「哀愁でいと」でデビューした田原俊彦も、同年の全男性アイドルのなかで圧倒的首位のセールスを記録しているのだ。こうして、松田聖子と田原俊彦はトップランナーとしてシンメトリーな関係を築くことでわかりやすいランドマークとなり、世間にアイドル新時代の到来をイメージづけた。
それから40数年、両者は還暦を過ぎた現在も全国ツアーを行う現役アイドルであり続けている。つまりは、たまたま偶然、天性の男女アイドルが同時期にデビューする奇跡が起きたからこそ、80年代のアイドルブームは起こったのだ。
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2022.12.18