1980年、小3の頃、テレビで「ライディーン」を聴いて文字通り雷に打たれたような衝撃を受け、YMO を知った。叔父に浅草松屋のレコード売り場で、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のカセットテープを買ってもらった。
何度も、何度も、聴いた。YMO の3人の中で、坂本龍一を一番好きになった。渋くて繊細で、誰とも違うように見えた。好きになったものの、買っていた『平凡』や『明星』に YMO の情報は載っておらず、なすすべもなかった。
それが1981年の小4のある日、父の FM雑誌で、坂本龍一がラジオの音楽番組の DJ をやっていることを知った。その番組は、1978年から1987年まで NHK-FM で放送されていた『サウンドストリート』(サンスト)。彼の担当は火曜日だった。
放送開始時間は、22時を過ぎていたため、父のお古の SANYO のラジカセに、ピンを刺すタイプのアナログな AKAI のタイマーをつなぎ、毎週エアチェックした。
サンストを聞き出して、坂本龍一は「教授」と呼ばれていることを知った。ただでさえぼそぼそと聞きにくい教授の声は、何度も重ね録音を繰り返したざらざらな音質のカセットテープで再生すると、もっと聞きにくかった。
そんな矢先の1982年、教授は忌野清志郎と「い・け・な・いルージュマジック」をリリース。テレビでも、派手に化粧してやりたい放題のふたり。まさに「い・け・な・い」感がして、最先端に思えた。サンストにも忌野清志郎はゲストで招かれ、RCサクセションの歌がかかった。
この番組には彼がアーティスト活動で関連している、ありとあらゆるゲストがやってきた。当時の教授が華やかに、自由に、枠に捕われずに色々な活動をしていたことの表れとも言える。デヴィッド・シルヴィアン、トーマス・ドルビー、ドゥルッティ・コラム、立花ハジメ、植木等、ビートたけし、山田邦子、前川清。そして、デヴィッド・ボウイまで来た(通訳はピーター・バラカン)。
教授は1983年5月に公開された『戦場のメリークリスマス』には音楽のみならず、俳優としても参加し、ボウイと肩を並べた。ボウイがゲストの時は、嬉しそうだった。ぼそぼそ声ではあるが、教授は嬉しい時は嬉しい、得意気な時は得意気に話す。そしてすごいと感じるアーティストを紹介する時は悔しそうに話す。とても自然で、正直で好きだった。
特に印象に残っているのは1984年、教授が初めてスクリッティ・ポリッティを紹介した時のことだ。彼らの音楽には、電子音とリズム、ニューウェーブ的要素とヒップホップ的要素、当時の「ナウい」ものがすべて詰まっていて、恐ろしくセンスが良かった。チープさがなかったし重低音が効いていてとてもロックに感じた。絶賛しつつも悔しそうな教授は、特に「ウッド・ビーズ」が大好きだったようで、何度かかけていた。1985年に『キューピッド&サイケ 85』がリリースされると私もすぐに、秋葉原の石丸電気に買いに行った。
その頃中学で会った友人が「坂本龍一ならうちの近所に住んでいるよ」と言っていて、その家にも行った。なんて大胆不敵な中学生だったろう。「ずっとサンストを聞いていて、大ファンです」と書いた手紙を持参し、彼の白い家の扉を叩いた。
教授のサンストは1986年3月まで続いたが、最後までは聞いていない。途中で、他で、自分で、好きなアーティストを見つけてしまい、自然と「サンスト離れ」してしまったのかもしれない。
それでも今も、教授がサンストでいいと言っていた音楽のことを思い出すし、好きだ。XTC とかロバート・ワイアットとかパワー・ステーションとか、いろいろ。自分の原点と言える音楽番組だ。
※2017年4月5日に掲載された記事をアップデート
2019.04.07
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