2月18日

オフコース「さよなら」小田和正の運命を大きく変えた一曲 ~ 前篇

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オフコースのシングル「さよなら」がオリコンチャートで最高位(2位)を記録した日
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1980年「さよなら」でブレイクしたオフコース


It was 40 Years Ago Today.
今から40年前の1980年(昭和55年)2月18日、前年12月1日にリリースされたオフコースのシングル「さよなら」はオリコンで2位まで上昇した。翌週も2位を記録し、これが最高位となる。この時の1位はクリスタルキングの「大都会」、そして3位は小田和正の盟友、財津和夫の「Wake Up」であった。

「さよなら」は1月14日付で8位に上り、オフコース初のトップ10ヒットとなった。1970年4月にレコードデビューしてからほぼ10年、ようやく80年代にブレイクを果たしたのであった。

しかしこのブレイクがオフコースの、そしてこの曲の作者である小田和正の運命を大きく変えていく。そしてソロになった小田がこの曲をオリジナルの形で演奏するまでにかなりの歳月を要することになるのである。

1982年6月、武道館コンサート以降「さよなら」を“封印”


1979年(昭和54年)10月16日から始まった『Three and Two』ツアーでオフコースは「さよなら」を初めて披露した。この模様は翌1980年5月5日にリリースされたライヴ盤『LIVE』にアンコールの1曲として収められている。オフコース2枚めにして最後のライヴ盤であり、小田和正にとっても未だ最新のライヴ盤である。

その後「さよなら」は当然ながらライヴの定番となる。1980年11月10日からの『We are』ツアーの日本武道館でのライヴ映像は2001年にリリースされた『Off Course 1969-1989 Digital dictionary』という DVD で観ることが出来る。オフコースは当時テレビに出なかったので、エレピを弾きながら小田が歌う、確認出来る中では最も古い「さよなら」のライヴ映像である。

そして歴史的とも言える1982年6月のオフコースの日本武道館10日間コンサート。これが5人オフコースの最後のコンサートとなるのだが、その最終日の模様が『Off Course 1982・6・30 武道館コンサート』という映像ソフトでリリースされている。ここにも当然「さよなら」が収められているのだが、7曲めと結構早めに出てくる。曲の前に小田が「僕たちの非常に思い出深い曲です」とひと言MCを入れ、エレピの弾き語りで歌い始めた。

この曲の大ヒットによるバンドの変化が、この日が5人のオフコース最後の日となる一因であったことを仄めかすひと言であり曲順ではなかっただろうか。実際に「さよなら」が大ヒットした1980年末に、70年代に小田と二人でオフコースを守って来た鈴木康博は脱退を申し出ている。この日も鈴木は渾身のギターソロを披露した。ぴんと緊張感の張りつめた「さよなら」だった。

そしてこの日以降「さよなら」は、ライヴから姿を消すのだ。

なんと1989年の解散コンサートでも歌われず


1984年(昭和59年)、4人で活動を再開したオフコースだが、5人時代の曲もセットリストには入っていたが「さよなら」は落ちてしまった。別稿(小田和正の名曲「君住む街へ」を生んだオフコース1987年のツアー)でも書いた通り僕は1987年のツアーでオフコースを初めて観たのだがこの時も「さよなら」は歌われていない。

ようやく「さよなら」が歌われたのは、1988年から89年にかけて行われたオフコース最後のツアー『STILL a long way to go』においてであった。やはり8曲めと早い登場。しかも毎回歌っていたわけではなく日によって替わっていた様で、大学4年の僕が観に行った1989年(平成元年)1月21日の新宿厚生年金会館では代わりに中期の名曲「秋の気配」が歌われた。小田一人がステージに残っての演奏。「さよなら」も同様で、バンド形式での演奏ではなかったらしい。

そしてこちらも別稿(オフコース解散コンサート ~ 小田和正が再び歌えなくなったあの曲)で書いたが、2月26日には東京ドームでオフコースの解散コンサート『The Night with Us』が開催されたが、この日も「さよなら」は歌われなかった。代わりに「秋の気配」が歌われるわけでもなく。大学4年の僕もさすがに、「さよなら」についての想いの難しさを感じずにはいられなかった。こうして僕はオフコースの「さよなら」をついに観ないままになってしまった。

小田和正がソロで「さよなら」を歌う。しかし…


「さよなら」を小田和正がソロでいつから歌い始めたかは寡聞にして分からない。ただ単発的なもので、レギュラーでセットリスト入りするのは2000年代だったようである。ツアー皆勤賞だった僕もついぞ出会えないままでいた。

僕が初めて観る機会に恵まれたのは、2000年12月31日の横浜の八景島シーパラダイスでの『ちょっと寒いけどみんなでSAME MOON!!』という屋外でのカウントダウン・ライヴだった。しかし僕は横浜の実家に長女を預け妻と足を運んだのだが車の渋滞で開演から大きく遅れて入場。8曲めに歌われた「さよなら」を見逃してしまった。

この日の模様は同名のライヴ DVD で観ることが出来るが、「さよなら」は「秋の気配」からのメドレーでなんとサビから始まる。そして小田はなんとエレキギターを手に立って歌っていた。バンドでの演奏でアレンジもオリジナルに近いものではあったが、ギターソロも歌い終わった後に来ていて、しかも DVD ではフェイドアウトしていた。率直な話、立ってこの曲を歌う小田和正には違和感が拭い切れなかった。

ともあれ、これが1982年の5人オフコース以来の「さよなら」のライヴ映像ではあった。

2000年代になっても「さよなら」はなかなかオリジナルの形で歌われない。しかし遂にその日が来るのだ。続きは明日


※編集部より:「さよなら」の演奏回数について間違いがあることをご指摘いただきました。内容を精査確認のうえ、修正致しました。

2020.02.18
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夏目草介
小田和正ファンのブロガーさんが、この記事の間違いを間接的に指摘した、『さよなら』についての記事をブログに掲載しています。

私はその方の記事が正しいと思います。
というのも、私も1992年『sometime somewhere』ツアーで、『さよなら』を聴いています。
そして、このツアーで何ヵ所か『さよなら』を歌った、という話を当時、他のファンから聞きました。
あと『THRU THE WINDOW』ツアーでも何回か歌っています。
つまり、貴方が参考にした「カウントダウンの演奏がソロになって4回目」という情報は、確実に間違っています。
明日の記事掲載は見送って、この記事自体の正確性を検証することをオススメします。

ちなみにそのブロガーさん、一気に2019年まで書いています。
続きが気になる方は、そちらを読むことをオススメします。
この前編が書かれた時期に起きた、面白いエピソードが掲載されています。
http://greendays.blog.jp/archives/52301063.html
2020/02/19 01:01
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返信
1965年生まれ
宮木 宣嗣
ご指摘ありがとうございました。該当の箇所は修正致しました。
2020/02/19 08:15
0
カタリベ
1965年生まれ
宮木宣嗣
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