9月

くだらなくも圧巻!ダディ竹千代と東京おとぼけCats の遺伝子はどこに?

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ダディ竹千代と東京おとぼけCatsのファーストアルバム「First」がリリースされた時期
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ネットを覗いていたら、1980年9月にダディ竹千代と東京おとぼけCats のファーストアルバムが発売されたという記事に遭遇した。そして思い出した。僕はこのアルバムのレコーディング取材をしたんだった… しかも香港で。

ちょっと記憶が前後しているけれど、ダディ竹千代と東京おとぼけCats の結成は1976年頃。リーダーのダディ竹千代(加治木剛)は、その前にカルメン・マキ&OZ のスタッフとして活動し、楽曲提供も行っていた。つまり、60~70年代のロックやソウルの息吹を最前線で知っている人でもあった。

ダディ竹千代と東京おとぼけCats は、その名前からも想像がつくようにコミックバンドだった。グループ名のヒントとなったのは、言うまでもなく我が国のコミックバンドの最高峰であるハナ肇とクレージーキャッツ。そして、クレージーキャッツが一流のジャズバンドでもあったように、ダディ竹千代と東京おとぼけCats も、ファンクをベースとする腕達者なバンドとしてライブシーンで注目された。

ちなみにダディ竹千代(Vo)以外のメンバーは、出入りはあったが、なかよし三郎(B)、キー坊金太(G)、ダニエル茜(G)、そうる透(Dr)、はまぐり三太郎(Key)など。ボーン助谷(Tb)らによるホーンセクションもついていた。

僕も、何度か彼らのライブを観ている。メンバー全員が高い技量の持ち主で、その演奏はかっこよかった。中でも、しゃもじ、大根など、ありとあらゆる小道具を駆使して演奏するなかよし三郎のチョッパーベースはくだらなくも圧巻だった。けっして単なるくすぐりやコントではなく、音楽そのものをネタにしてひねりを利かせた彼らの笑いは、音楽好きにはたまらないとともに、彼らのバンドとしての矜持を感じさせるものだった。

ダディ竹千代と東京おとぼけCats は、1978年6月にシングル「電気クラゲ」でレコードデビューしていたが、80年に入って早々に、ファーストアルバムを海外レコーディングで制作することになった。当時、海外レコーディングはアーティストにとってステイタスだった。しかし、ダディ竹千代はカルメン・マキ&OZ の時、すでに L.A.レコーディングを体験していたこともあるのか、同じ海外でも人があまり行かないところでレコーディングしようと思ったようだ。そして目をつけたのは香港だった。

1980年の日本では、香港は今ほど馴染みのない場所だった。ブルース・リーは知られていたけれど、ジャッキー・チェンはまだ出てきたばかりの新人。香港映画で話題になったのは、コメディ映画『Mr.BOO!』くらいだった。僕自身の当時の香港への認識といえば、アグネス・チャンの出身地、程度のものだった。

たぶん、80年の2月頃だったと思う。ほとんど予備知識なしで訪れた香港は、なかなか強烈なインパクトがある場所だった。今はもう体験できない、古いビルの横をすり抜けるように降下していく啓徳空港への着陸は、それ自体がアトラクションだった。悪名高き九龍城も健在で外から眺めるだけでやばいオーラが伝わってきた。そんな先入観の余波で街中が怪しく見えた。

レコーディングが行われたのは香港 EMI スタジオ。名前は格調高そうだけれど、実際は住宅地の古い建物の中で、設備的にも最新とは言い難いスタジオだった。

当時は、まだ広東語による香港ポップスのムーブメントが起きる前。日本で紹介されていたポップシンガーと言えば、『Mr.BOO!』にも出演していたサミュエル・ホイくらいで、音楽ビジネスもまだまだ盛んではなかった。そんな事情で、レコーディング環境もまだまだ十分とは言えなかったのだろう。

しかし “なんか面白そう” くらいのノリでくっついて行った当時の僕は、そんな事情も知らなかった。だから、香港 EMI スタジオがどんな由緒をもっていたのか、これまでどんな人がレコーディングしたのかを現地スタッフに聞いてみる、なんていう発想もなかった。今思えば、もったいないことをした。

メンバーもレコーディングに苦戦していたように見えた。機材や録音のやり方の違いもあるのか、なかなか思うような音にならない。次第に空気が重くなっていく。もちろん、これが最初のアルバムという彼らの経験不足もあったかもしれないが、やはりいきなり香港という未知の場所に挑戦したリスクは高かったということなのだと思う。

香港からの帰国後、レコーディングは六本木の SONY スタジオで続けられたが、僕は東京でのレコーディングは覗いていない。完成したアルバムは、幅広い音楽性のなかに日本人ならではの音楽へのアプローチを感じさせる、さすがの力作に仕上がっていた。

今でもはっきり記憶に残っているのが、レコーディングの煮詰まりがちな気分を和ませてくれた昼食タイムのことだ。昼時になると、スタジオのおじさんがペーパーボックスに入った出前の中華ランチを届けてくれた。けっして豪華なメニューではないのだけれど、どれも本当においしかった。香港のB級ランチに対する絶対の信頼感が僕に刷りこまれたのはこの時だった。

90年代に入り、日本と香港のポップスは大きな接点を持つようになり、僕も香港に行く機会が増えた。そんな折、オシャレな街角を歩きながら “おお、ここも綺麗になったなあ” などと、旅の達人風に感慨にふけっては悦に入ったりもした。そんなことができたのも、おとぼけCats のおかげだった。

ダディ竹千代と東京おとぼけCats は、82年に活動を停止(※注)してしまう。しかし、音楽がつくりだす笑いを模索していく彼らのアプローチは、あまり語られはしないけれど、その後かなり多くのアーティストの音楽のなかに受け継がれているんじゃないかと思う。

確かめたことはないけれど、くしくも82年に結成された米米CLUB にも、おとぼけCats の遺伝子は受け継がれているような気がする。また別の機会に、そんなことにも触れてみたい。


※注:
活動停止後、80年代半ば、90年代初めなど、再結成と解散を繰り返している。


2018.09.06
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カタリベ
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