のちに「昭和の日」となった、平成元年のこの日、ユニコーン初めてのシングル作品がリリースされた。
ユニコーンのデビューは1987年(昭和62年)。同期にはレピッシュやプライベーツらがいる。当時、中学生だった私が初めて彼らの事を知った活字メディアは月刊『明星』だったと記憶している。
新たにデビューする新人を紹介する記事で取り上げられたユニコーンの奥田民生は「どうせやるならチェッカーズぐらい有名になりたい」と発言しており、同様の記事で対するレピッシュは(おそらくフロント3人の内の誰か)「本気でこの雑誌(明星)を買って読んでいるような人には(自分達の作った音楽を)聴いて欲しくない」と発言。一見、レピッシュの方がロック寄りで尖がって見えるが、盟友とも呼べそうな両バンドにおける、その後のセールスの明暗を分ける姿勢が既にあったような気がして興味深い。
さて、ユニコーン初めてのシングル作品について考えてみよう。ファーストアルバム『BOOM』(87年)収録曲なら「Maybe Blue」、セカンドアルバム『PANIC ATTACK』(88年)であれば「SUGAR BOY」など、シングルとしてリリースしてもおかしくないクオリティの曲は他にもあったはずだ。
奥田民生本人は「忘れていた」とトボけているが、上記のようなちょっと切ないメロディの俗にいう「良い曲」は俺達が出さなくてもプリプリやリンドバーグが出すだろうから、敢えて出す必要はないとの発言もあり、限定されたイメージに拘束され、多様な音楽性を封じ込められないようにする為の戦略もあったのでは? と思わずにはいられない。
こうして、初のシングルとしてリリースされたのは「大迷惑」。初期のアレンジやプロデュースを担当した笹路正徳の弟子に当たる阿部義晴が、サポートメンバーから正式にメンバーとして加わった、サードアルバム『服部』からの満を持しての先行シングル(カップリングは表題曲「服部」)だ。
平成となってからのリリースとして象徴的なのが、シングルレコードとしての発売はなく、8cmCDとカセットのみのリリース形態だった事である。
ちなみにカセットのB面には、奥田民生による「大迷惑」歌唱指導と、カラオケが収録された。アナログ好きの奥田民生としては、レコードでの発売がなかった事を残念がったという。
平成バンドブームの最中に、ブレイクを果たしたユニコーン。ブリーチした金髪からロン毛の黒髪、ヒゲを蓄えた風貌となった奥田民生が、当時、再評価の機運が高まりつつあった植木等と雑誌で対談し、表紙を飾った事もあった。
「大迷惑」のテーマが単身赴任であり、同じくサラリーマンの悲哀を歌った先達がクレイジーキャッツであったとの意向の企画だったように思うが、掲載時は、新進気鋭の人気バンドマンとダンディーな白髪の植木等のツーショットに違和感を覚えたものである。
もっとも、大瀧詠一によるクレイジーキャッツに対する敬意から、執拗なまでのリイシューが繰り返された結果の再評価であるのを私が知るのは、まだまだ先の話であり、当時、高校生の私にはクレイジーキャッツの音楽の持つ破天荒さやダイナミズムを正確に理解するには、経験値を上げなければならなかった。
CD を始めとする、光学メディア自体の火が消えてしまいそうな昨今の視点から振り返ってみると、昭和と平成の狭間に8cmCDでリリースされた「大迷惑」は、令和を迎えようとする今の時代にも「懐メロ」には聴こえない。
音楽を生業とする事にどこまでも自覚的であった奥田民生の視点で切り取られたサラリーマンの悲哀は、いつの世も同じだから… ではないだろうか。
2019.04.29
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