2023年 11月5日

シティポップ・マエストロ【林哲司インタビュー】① 曲作りのきっかけは加山雄三!

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林哲司のコンサート「ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート」開催日
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デビュー50周年!「林哲司の世界~ザ・シティ・ポップ・クロニクル」が開催


今年デビュー50周年を迎えた作曲家・林哲司。昨今全世界から脚光を浴び続けているシティポップをはじめ、日本のポップスシーンを牽引してきたソングライターの第一人者である。各種ライブやイベント、CDボックスや書籍の発売と活発に展開されてきたメモリアルイヤーの集大成として、11月5日に豪華メンバー出演によるコンサート『ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート』が開催される。半世紀に亘って音楽界の第一線で活躍を続けてきた氏に、作曲家としてのルーツとその作品群、そして今回のコンサートや今後の展望についてお話を伺った。



―― 11月5日のコンサートはすごいメンバーですね。50周年プロジェクトの集大成ということになるでしょうか。

林哲司(以下林):そうですね、これだけの出演者に集まってもらえて50周年ファイナルランを飾れるのはすごく光栄なことです。過去、35周年の時に同じ場所でやりましたけど、その時とは一線を画して、今回は林の作品が主体になるコンサートということだと思うんですね。そこに持ち歌の方もいれば、あるいはカバーの方もいらっしゃいますが、錚々たるメンバーが出演してくれるっていう、まあ、本当に大きなイベントになると思います。

―― 出演者は、林さん自らお声がけをされた方もいらっしゃるそうで。

林:実際に自分が電話して確認したのは、自分のライブに出演していただいていた方とかですね。オメガトライブの杉山(清貴)くんの出演が決まってたんですけど、彼にも直接電話して。本来だったら、彼ら自身が今年40周年だったんですけど、ライブ活動が来年になるっていうことなんで、じゃあその前哨戦じゃないけど出てくれるかと聞きましたら、全員喜んで出ますという嬉しい返事で、バンドで出演していただくことになりました。

作曲家、林哲司が浮き彫りになる構成


―― 今回はやはり楽曲ありきで構成されているのでしょうか。

林:そうですね。普段行っている「Song File Live」では自分がショーのホストとして、ステージを頭から最後まで務めるということでゲストをお迎えしてますが、この50周年のイベントに関しては、もうほんとに曲が主役で、次から次に僕のナンバーが出てきて、そこから作曲家 林哲司が浮き彫りになってくれれば。作曲家としての僕のファンの方のみならず、これだけ広いキャパシティなので、それぞれのファンの方たちがいっぱいいらっしゃると思います。その中で、他の作品も聴きながら、林の作品がどういうものかを掴んでいただければという風に考えております。

―― これだけの方々が出られるので、その歌手の方に提供された曲が多いほど選曲に悩まれたのではないでしょうか。

林:どうしても代表曲中心にはなると思うんですけど、僕の意見ばかりではなくて、コンサートの企画者の意見も反映されています。それもシティ・ポップ・クロニクルという括りなので、単なるヒット曲だけではなくて、今のシティポップブームの中で取り上げられている曲なども。なにしろブーム自体が、僕自身も想像がつかなかったことなので、思わぬ楽曲も選ばれているかと思います。その辺りが特徴的なコンサートになるんじゃないでしょうか。

―― ヒット曲だけでなく、アルバムの曲とかもかなり再評価されていますね。

林:そうですね。そういう捉え方をして見に来てくださる方もいらっしゃるんじゃないかなと思います。

―― 僕らリアルタイムで聴いていた人間は、どうしてもシングル曲に思い入れがありますが。若い方はネットで見つけたりしてフラットに聴いているから、シングル曲とかアルバム曲とか関係ないみたいですね。

林:今はそういう面白い時代になりましたね。僕らはもう如実にA面、B面とひっくり返さなきゃならない時代でしたから、A面で買って、B面を聴いたらそちらも良かったみたいなところですからね。今は情報が先に伝達されて、ピンポイントでその曲を選べる時代になってるから。

―― LPでAB面があるからこその、A面の5曲目とか、B面の1曲目に意味を持たせるなどということがなくなりましたね。

林:そこの並びを考えましたもんね、すごく。僕は80年代の作曲に関して言えば、シングルのA面はもうはっきりと売らなきゃいけないっていう、ヒットメーカーとしての役割がありましたから。それに関してはものすごいサビのフックがあるようなものを、 極端に言うとサビから書き出したりしたこともあるんです。そういう試練のような時期がありましたけど。そういう時期に、1曲書いた安堵感からか、2曲目は自分の中で自由に書けるっていう強みがあって、その中で本領が発揮できるみたいなところが出てくるんですね。アルバムもそうなんですけど、アルバム以上にシングルのカップリングでそういうことがありましたね。

アイドルの場合は両面ともインパクトのある曲を求められちゃうんですけど、アーティスト系だと、この人のキャラクターでちょっと違う部分出してみたいとか、冒険してみたいとか、そういうことができたりもするので。その作業に入っちゃうと、もうA面もB面もないですね、正直。



テーマの範囲で、できるだけいいメロディを書くのが宿命


―― 歌手の方を想定して書かれる場合、その方の声や声質は作曲に影響を及ぼすものでしょうか。

林:それはもう絶対的に。それを意図的に外す場合もありますけど。どういうことかっていうと、誰もが考えるそのアーティストに一番似合う路線っていうのがおもむろに見えるじゃないですか。そこをあえて外すっていう考え方もあるんです。 作品の依頼があった時にプロデューサーなりディレクターが、はっきりとしたコンセプトだとか、テーマを明確に持っている場合っていうのは、その範囲の中で、できるだけいいメロディを書くのが宿命になるんだけど、そうではないお任せみたいなこともある。

こういう話をすると誤解を受けるかもしれないんですけど、日本の曲ってほとんど聴かないんですよ。ただし、シングルの発注を受けて書く時っていうのは、そのアーティストにおける繋がりがあるじゃないですか。それはやっぱり確認した上で自分が何を求められているかってことを感じ取らなきゃいけないわけですよね。僕の前の作曲家が書いたものの結果がどうだったのかってことも重要な問題だし、それで自分に矢印が向かってきた時に何を求められてるかってことが明確になってくるわけですね。

そうすると、どういうタイプの曲を書いたらいいのか、この声質に対してどういう魅力を出したらいいのかってことがだんだんクローズアップされてくる。例えば、書くまでに1週間が必要だったりとか、実際に書く時間は1日であったりとかするわけなんですけど、でもその間モヤモヤしてて、それを探ってるみたいなこともあるし、あるいは他の仕事をやりながら、ぽこっとそこが思いついたりとかっていう流れもあるんですよね。だから、書くのは1日じゃんって言われることはちょっと心外で、何日か遅れるっていうことに対しては、別の意味がちゃんとあるんです。それは他の仕事でもそうじゃないかと思うんだけど。決められた枠の中で答えを出してくっていうのは、プロとして今までやってきたことなんですけど。

60年代ポップスはチャートからの影響


―― 林さんの、洋楽のルーツみたいなものは、やはり60年代のアメリカのポップスなんでしょうか。

林:基本的には、60年代ポップスはチャートで聴いてましたから、そこに影響されるっていうことはあったと思うんですけども。兄貴の影響も大きかったでしょうね。だいぶ年が離れていて、長男は歌謡曲で、次男は洋楽好き。次男からの影響の方が大きいんですけど。長男も歌謡曲、いわゆる流行歌を聴いてましたから。そういうものも耳で覚えちゃって歌うじゃないですか。節操がないって言うと悪い言い方なんですけど、ある意味グローバルでしたね。インストゥルメンタルがあったかと思うと、ボーカルものがあったり、ジャズがあったりとか、ラジオのチャート自体もごちゃ混ぜで。

ビートルズが出現した時も、当時やってた『9500万人のポピュラーリクエスト』っていう人気番組があったんですけど、上位のビートルズの曲を聞くために、下位からの曲を聴いていくわけなんですけど、 その中にはフレンチポップスのシルヴィ・バルタンがいたり、カンツォーネのジリオラ・チンクッティがいたりとか。振り返ってみると、それは全部自分の音楽的な知識になっているっていう、恵まれた当時のラジオ番組の環境があったわけなんですけど。

―― 洋楽の概念も今とはだいぶ違いますね。

林:だから、僕があるコミュニティーFMを主宰していた時期に、自分の番組はそこまであからさまじゃないですけど、フレンチのすごくいい曲を入れたりとか、アメリカンポップスでもアルバムの中の曲を入れたりとか、ごちゃ混ぜにしました。映画音楽を入れたりとか。今の時代ではあまり受け入れられないような感じがありますけど。音楽家にとってはそういうアラカルトの番組っていうのはありがたい。

ジャズなんかも映画音楽で、『スエーデンの城』っていう映画があるんですけど、その主題歌がサックスの入ったヨーロッパジャズなんです。それがチャートの中に入ってると、何回も聴くものですから、レコードも買う。そのアドリブを耳で覚えちゃってて今でも歌えますよ。

加山雄三の登場で変わった音楽を自ら具現化させようとする意識


―― それらの自分の中に取り込まれていった音楽を自ら具現化させようと意識されたわけでしょうか。

林:それが、当時は全く思わなかったんですよね、中学生の時に何やりたい? って聞かれた時があって、その時はブラスバンドをやってましたから、バンドマンになりたいって言ってたらしいんですよ。でも具体的なものは自分の中で何も裏付けがなくて。どうしたらバンドマンになれるかなんてことも全く考えてないし。ビートルズが自分たちで歌う作品を自給自足でやっているってこともわかってるんですけど、遠い外国で起こってることで、今のように海外が近い存在ではなかったから、現実的なものじゃなかったんでしょうね。

ところが、加山雄三さんがそこに登場することによって考えが変わる。役者で、曲を作って、しかもあの当時オリジナルであんな斬新な曲を歌っている人はいなかった。そういうヒーローが目の前に現れちゃうわけですよ。日本人でこんな曲が作れる、もしかしたら自分もできるかもみたいな、自惚れというか、思い込みが入るわけですよね。それが良かったのか悪かったのかわからないけど、自分で曲を作っちゃったんですよ。それでクラスの周りの連中が驚いて、「お前いいよ!」とかって言われることに対して喜びみたいなものをそこで味わっちゃうんですよね。

それからはもう、作曲に熱が入っていって、高校を卒業するぐらいまでに200曲ぐらい書きました。今ではもう箸にも棒にも引っかからないような曲ですけど、オープンリールの中に、どんどん溜め込んじゃうわけです。成績は下がるけど、反比例で曲の作りはうまくなっていくみたいな。そういう高校生活を送っていました。その時代から始まったことが、今に至るまで導かれているような気がするんですよね。

―― 曲を作るようになるきっかけは、加山雄三さんの音楽に出会ったことだったんですね。

林:一番最初に作った曲は、三連のバラードで、「恋は紅いバラ」的な曲でした。「君といつまでも」より前、「恋は紅いバラ」を歌う加山さんをテレビの『スター千一夜』で見た時に初めてその存在を知ってレコード店に走ったという記憶があります。その後に「君といつまでも」が大ヒットになった。もちろん素晴らしい曲だと思いますが、僕の原点は「恋は紅いバラ」なんです。

―― 当時は映画から生まれるヒット曲も多かったですね。

林:加山さんの曲もまさにそうでしたよね。バンド活動は高校時代に始めたことでしたけど、歌うことと楽器をやれるってことで、同時に面白さを味わっているのは、『サマー・ホリデイ』とかやはり映画にも出ていたクリフ・リチャードとかの影響でしたね。僕にとっての洋楽は主にはビートルズでしたけど、その前はクリフ・リチャードなんですよね。それは世代の違いで、プレスリーに影響された人たちよりも一世代後なんですね。そこに影響を受けてギターを始めるって感じになったんですけど。大学生活を送って音楽活動しながら、コンサートにゲストで出たりとか、ラジオ番組のゲストに出たりとかっていう場面もありましたけど。大学に全然通ってないのがバレて、仕送りをストップされちゃうんですよ。どうしようかってだんだん不安になってくる。自分が軌道から外れてるってことは客観的にわかっていたんで。



ヤマハ作曲・編曲コースで出会った萩田光雄


―― そこをちゃんとご自分で意識されていたのはすごいですね。

林:憧れてた大学生活でもない、世の中はフォークとかが流行りだして、自分のやってる音楽とは違うものが主流になっていったりするわけじゃないですか。そのストレスみたいなものとかもありましたね。音楽は好きだけど、仕事になるのかなっていうこともわからないし、方法論もわからない。僕らがポップスを勉強したいと思った時に、その本もないし、学校もなかった。音楽を勉強するっていったら、クラシックの音大に行くしかないっていう環境だったんですよね。

その時に一つだけ、昔あった『ガッツ』っていう音楽雑誌の広告に、ヤマハで作曲・編曲コースっていうのができましたっていうのが載ったんです。その講師として村井邦彦さんの名前があって。村井さんっていえば、僕たちがその当時一番垢抜けた作曲家として認知してた人ですから、その人が講師の中にいる講座があるんだったら行ってみたいな、ということで通い出すんですよね。

まだ作曲家になろうとか、具体的なものは全くなく、ただ、音楽家として必要なことを学べて音楽が職業にできたらいいなぐらいの程度で通い始めたんですけど、そこにいたのが萩田光雄さんで、大橋純子さんや船山基紀さんが後から入って来るっていう、そういう音楽集団がなんとなく形づくられるんですよね。

とりあえず、そこの環境の中にいるってことは、絶えず音楽に触れられる。練習室は使えるし、それから仲間がいるから、一緒にアンサンブルできたりとか、作曲できたりとか、そういう環境はすごくありがたかったですよね。大きかったのはやっぱり音楽雑誌。『ライトミュージック』って雑誌に携わったことによってレコード会社に出入りできるようになるわけですよ。サンプル盤をプロモーターが持ってきてくれたりとか、あるいはこちらから取りに行ったりして、そういうレコード会社への出入りが叶うようになってきて、洋楽のプロモーターのとこに行っても、横を見ると邦楽制作部があったりするから、なんとなく近いとこにあるなっていう感覚が自分の中にあって。

洋楽のディレクターに「僕、作曲やってんですよ」って言ったら紹介してくれたりとか。そのうち自分の作品が周りの人たちに認知されてくると、ヤマハに出入りしてる人たちが、「ちょっと曲を聴かせて」みたいなことで。



ヨーロッパ放浪後、だんだん現場に近づいてくる実感


―― だんだん現場に近づいてくる実感があったということですか。

林:はい。そうこうしてる時に、ポーランド音楽祭に行った先輩がいて、自分はやっぱり音楽祭に参加したいっていうことがあったんで、チリの音楽祭に応募して、ヨーロッパを3ヶ月ぐらい放浪して帰ってきたら、ポリドールから声がかかってデビューっていう話に繋がるんです。

一方でそのデビューアルバムを面白がってくれた出版社が、当時のPMP(現フジパシフィックミュージック)なんです。一番ポップスに近いところの音楽をやってた音楽出版社だったんですね。そこで、キティとの契約になるんですけど、そちらでも声をかけていただいて、ミシェル・ルグランが音楽をやった『ベルサイユのばら』の日本版の曲を書かせてくれたりとか、亀渕友香さんのアルバムに曲を書かせてもらったりとか、さらに(筒美)京平先生からも声がかかって、アレンジをやらせてもらうようになる。

少しずつその枠が広がってくるんですよ。ただ、その当時の環境からすると、僕たちが作曲家として作品を提供するポップスを歌うアーティストも少ないし、シフトして歌謡曲的なものを書こうにも、先輩が多い社会ですから、入り込む余地がないわけですよ。で、唯一その自分が招かれた部分っていうのが、アレンジャーとしてだった。それはどういうことかっていうと、作品自体は昔から踏襲されたメロディであっても、時代とともに新しいサウンドを作るアレンジャーがニーズとしてありますから、僕らにもその話が来るわけです。

シンガーソングライターデビューして、本来だったらパフォーマーとしての強い意志があれば、その道をずっと行くっていう人生もあったのかもしれないけど、1作目が当たりませんでしたから。だけどアレンジをやると食えるということがあったので否応なしにそっちへ行く。アーティストの道を突き進むんじゃなくて、こっちの方向にシフトしちゃったんじゃないかな、と。それは意図的というよりは、選択肢としてそういう方向に運ばれていったっていうことだったんでしょうね。

―― ものすごく冷静にご自分を客観視されていたんですね。

林:シンプルな理由で面白かったんです。自分の作品が形になってお皿になるっていうことは、アレンジだけでも楽しいです。作品になるってこと。そうすると、それが2枚、3枚と溜まっていって、自分の作品がだんだん増えてくる。アレンジでもね。

そのうちに著名なアーティストの、例えば布施明さんだとか南沙織さんのアレンジに参加できたり、筒美京平さんの作品のアレンジをやったりとかっていう、だんだんその枠が広がってきて、なだらかでも確実に上昇しているっていう、明日を夢見られるようなスロープを歩いてた感じなんですよね。

だけど、曲を提供するって場面はまだなかったから、そのうちに大橋純子さんが出てきたり、その後に竹内まりやさんと松原みきさんが出てきてから、比重が必然としてこっちの方に傾いちゃったから、その流れの中で、今度はアレンジャーから作曲の方に。今思うとそういう流れに導かれたのかなっていう感じがして。その時は自分の意思でやっているんですけど、客観的に後から振り返ると、そういう運命的な流れがなんとなく出来ていったような気がするんですよね。

1979年 竹内まりや、松原みきのスマッシュヒットが大きな展開に


―― 早くから作曲をされていて、すでに蓄積も相当あったと窺われます。そういうものがご自分の中で自信に繋がったことはありましたか?

林:それは土台になりましたね。この間ソニーから出たCDボックスを作ってもらった時に、いろんな参考資料を出さなきゃならなくて、家の中で探しまくったんですけど、そうしたら出てきたのが、当時作っていたものはほとんど詞も書いているんですよ。ていうことは、もう歌う気でいたってことですよね。逆に言えば、自分で作詞作曲するのは当たり前のこととして受け止めていたってことでしょうか。それが職業作曲家のようになっていくっていうのは、業界の仕組みももちろんそうですけど、だんだん流れていったという感じですかね。

―― やはり、ヒットソングを出したことが大きかったのでしょうか。

林:そうですね、やっぱり今振り返って、皆さんの記憶に残るようなところまでのヒット曲という意味で考えると、デビューして間もない竹内まりやさんと、それから松原みきさんっていうのが79年に出てきてスマッシュヒットになったっていうことは、次に展開する段階では大きいことだったと思いますね。

決してポップスがメインストリームの時代ではなかった、まだ揺るぎない歌謡曲が主流の時代だったんだけど、それらのヒットによって、なんか面白い作曲家がいるぞっていう、業界に対しての告知ができたような気がするんですよ。


第2回へ続く
2回目では広く知られているヒットソングを中心に、作曲作品についてのお話を伺います。



Information
~林哲司 作曲活動50周年記念 オフィシャル・プロジェクト~ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート



■ 公演日時
2023年11月5日(日)[開場]16:00 [開演]17:00
■ 会場
東京国際フォーラム ホールA
■ 出演
杏里 / 伊東ゆかり / 稲垣潤一 / 上田正樹 / エミ・マイヤー/ 菊池桃子 / 国分友里恵 / 佐藤竹善 / 杉山清貴/ 杉山清貴&オメガトライブ[杉山清貴(Vocal)、髙島信二(Guitar)、吉田健二(Guitar)、大島孝夫(Bass)、廣石惠一(Drums)、西原俊次(Keyboards)、大阪哲也(Keyboards)、Juny-a(Percussion)/ 鈴木瑛美子 / 寺尾聰 / 土岐麻子 / 林哲司 / 松城ゆきの / 松本伊代 / 武藤彩未 / Little Black Dress
※50音順。都合により出演者が変更になる場合がございます。予め御了承下さい。

https://tetsuji-hayashi-live.com

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2023.09.17
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