発売から45年を経て、世界的規模の大ヒットになり、今も止まない賞賛の声。松原みきの「真夜中のドア〜stay with me」を取り巻く状況は、より一層ワールドワイドに拡大する傾向にある。今回、松原みきのデビュー当時にマネジメントを手掛けていた菊地哲榮氏にインタビューを敢行。彼女のデビュー前から「真夜中のドア」の時期、その後の展開に至るまで、詳細なエピソードを伺うことができた。
「最初は “stay with me” というタイトルだったんです。でも、堺正章さんが同じタイトルの曲を6月に発売されていて、それなら “真夜中のドア” を前にくっつけようとなった。実はデビュー曲の候補はもう1曲あって、それはファーストアルバム『POCKET PARK』に収録されている、そんなに派手な曲ではないけれどジャジーに感じた「Manhattan Wind」でした。「真夜中のドア」は、アーティストのキャラクターも考えて、こっちの方が将来的にいいだろうということで決定したんです」
デビューシングル「真夜中のドア〜stay with me」は1979年11月5日に発売。驚くべきはホールでのファーストコンサートが行われたのがその翌月、12月2日である。東京・芝の郵便貯金ホールで行われたこのステージは、ギターに今剛と松原正樹、ドラムが林立夫、ベースにMike Dunn、キーボード安藤芳彦、パーカッション斉藤ノブと、パラシュートのメンバーが参加。さらに小林泉美もキーボードに加わっている。つまり、最初から音楽的に高水準の破格のメンバーで世に送り出されたのだ。
その効果もあり、「真夜中のドア〜stay with me」はヒットに結びついた。テレビでは専属のバックバンド “カステラムーン” と共に出演。バンドリーダーが伊藤銀次であったことは、本サイトの伊藤銀次氏本人の記事でも承知の通りだが、同時にライブ活動も精力的に行なった。初期は新宿ルイードへの出演が多く、他にも渋谷テイクオフセブン、渋谷ライブインなどを中心に活動。菊地氏曰く、ステージでは必ず、セルジオ・メンデスで有名になったボサノバの「マシュ・ケ・ナダ」をレパートリーに入れていたそうである。ジャズが好きだった松原みきは、ポップスでのデビューに何か思うところはあったのだろうか。
佐藤輝は、キャロルの解散ライブの中継『グッバイ・キャロル』(TBS)を皮切りに、矢沢永吉と松任谷由実を海岸で対談させたり、美空ひばりと岡林信康の共演番組を作ったり、沢田研二を番組内でヌードにしたり、そのほか尾崎豊のプロモーションビデオなどなど、アーティストの映像作品を多数演出した映像作家で、アバンギャルドで大胆な演出で知られる。この番組でオンエアされた松原みき「真夜中のドア〜stay with me」は佐藤輝が再編集し、公式ミュージックビデオとしてYouTubeにアップされている
それにしても、発売から45年が経過した「真夜中のドア〜stay with me」の現在の状況、海外での人気について、菊地氏はどのように思っているのだろう。
「未だに聴かれているというのがすごいことで、本当に、何がどうなるのか運命はわからない。今年、Adoが初めての世界ツアー(Ado THE FIRST WORLD TOUR "Wish”)を開催した際、本編ラストの1曲前で「真夜中のドア」を歌ったんです。ツアー初日のタイからお客さんはすごいノリで、ツアーラストのL.A.までセットリストに入っていたとのことです」
現在、Spotifyの日本の楽曲再生回数チャートで、70年代の楽曲は上位100曲中、唯一「真夜中のドア〜stay with me」だけである。20世紀の曲も、他には宇多田ヒカルの「First Love」が入っているだけ。他の98曲は全て2000年代以降の楽曲で占められている。なぜそこに「真夜中のドア」がいるのか。その魅力は松原みきの声にある、と菊地氏は語る。