2023年 6月21日

【林哲司 50周年】ミュンヘンディスコを狙ったイースタン・ギャングは黒歴史なのか?

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林哲司のアルバム「ディスコティーク:ルーツ・オブ・林 哲司」発売日
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シティポップブーム、日本発の世界に通用する最大ヒットこそが「真夜中のドア〜Stay With Me」


シティポップブームというのはなんだか実態がなかなか掴みにくいところがあるものの、拡大解釈されながらもまだまだその勢いは衰え知らず、といったところだろうか。

ここ数年(2010年代後半以降くらいか)様々な楽曲・アルバムに再脚光が当てられ、ブームの象徴的存在になった。当サイト、Re:minderでも多くのコラムが掲載されている。

そんな一般層への刷り込み的役割を果たしてブームに一層の拍車をかけた楽曲といえば、松原みき「真夜中のドア〜Stay With Me」(1979年)の右に出るものはない。2019年くらいからサブスクやYouTubeでの再生回数が増大。

現行の(女性)シンガーたちによるカバーも枚挙に暇がないという現象が勃発。ある意味シティポップブームの代表的ヒットソングになっている。コロナ禍以降の現役アーティストを含む日本発の世界に通用する最大ヒットこそが「真夜中のドア〜Stay With Me」であると断言してもいいくらいだ。



シティポップ・クリエイターの重要人物のひとり、林哲司


その「真夜中のドア~Stay With Me」の作曲・編曲を手掛けていたのが林哲司。ほぼ同時期に、やはりシティポップブームの代表的シンガー、竹内まりや「September」の作曲も手掛けていたり、80年代女性アイドル再評価の文脈から一連の菊池桃子シングル曲を一手に作曲していたことも相まって、昨今はすっかりシティポップクリエイターの重要人物のひとりに君臨している感を抱く。

「真夜中のドア」、「September」、「悲しみがとまらない」(杏里)、「悲しい色やね」(上田正樹)、「北ウィング」(中森明菜)、「天国にいちばん近い島」(原田知世)等といった当時のヒットソングはいくつか輩出してはいるが、どちらかというといわゆる歌謡曲系あるいはアイドル系ヒットメイカーのイメージがあったし、それ以前に世を席巻するような決定的メガヒットを送り出したわけではないので、例えば筒美京平等と比したら作曲家としての一般的知名度は低かったと言わざるを得ない。

なので林哲司は21世紀にはいってから、そのクリエイターとしての知名度やステイタスが確立されたと言っていいのかもしれない。

林哲司、ディスコミュージッククリエイターとしての顔


実はこの林哲司、上記のシティポップ系・アイドル歌謡系の作曲家たるクリエイターとしての顔以外にもうひとつの顔を持っていた。作曲活動を始めたごく初期の頃(1976年頃から作曲家として世に出始める)、およそ1978〜1980年という短い期間ではあるが、ディスコミュージッククリエイターとしての顔を持っていたのだ。そう世界を席巻したディスコブームは当然のように日本をも巻き込んでいたが、その隆盛期(ディスコブームのピークは1979年)において林哲司はイースタン・ギャング(EASTERN GANG)名義のディスコソングを世に送り出していた。

ディスコミュージックも1970年代後半に差し掛かると、大衆音楽の各ジャンルがそうであるように枝分かれが激しくなるが、日本で大きな人気を博したのがいわゆる “ミュンヘンディスコ” と呼ばれる欧州産ダンスミュージック。ボニーM、初期アラベスク、ジンギスカンあたりが日本でビッグセールスをあげた3大ミュンヘンディスコアーティストだが、彼らに追いつけ追い越せとばかりにこの時期になると洋楽のように見せながらのミュンヘンディスコを体現する和製覆面アーティストが出現してきたのだ。

ひと足先にディスコシーンに殴り込みをかけた、筒美京平主宰のDr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス(1976~1977年)が、USソウルミュージックを基盤としたディスコサウンドで打って出たのに対し、イースタン・ギャングは日本では大きなマーケットとなりつつあった、欧州産ダンスミュージック(ミュンヘンディスコ)を再現することに腐心していた。



1970年代後半のディスコブーム時の和製覆面アーティストとは?


そう、1970年代後半のディスコブーム時において、洋楽のように見せる和製覆面アーティストでは、ヒットの有無やセールスの大小を度外視すればオリエンタル・エクスプレスとイースタン・ギャングは2大グループとしてシーンにその名を刻んでいたのではないだろうか。

イースタン・ギャングはシングル6枚、アルバム2枚をリリース、おおむね欧州系ダンスミュージック〜ミュンヘンサウンドを基盤としながら、後にブギーファンクと呼ばれるポストディスコ期に向かう大きな意味でのファンクサウンドを追求していた。しかしメジャーメディアに乗るような一般的ヒットはもとより、メインターゲットにしていたダンスフロアにおける決定的ヒットは誕生しなかったと言わざるを得ない。ただでさえUS(ビルボード)ヒットにはなかなか結びつき難く、どうしてもB級感みたいなものが滲み出るのが欧州産ダンスミュージックというのは否定できない事実。

林哲司に限らず、和製洋楽にもそのB級感の払拭はならず、さらにはフロアにおけるダンスミュージックとしての機能性でも海外産ディスコには及ばずという感触が伝わってしまい、受け手側の(特にディスコ)洋楽至上主義的な雰囲気も相まって、様々な要素が絡まってイースタン・ギャングのブレイクは実現しなかった。

林哲司が心の底からダンスミュージックを愛していることの証左


しかし特にセカンドアルバム『マジック・アイズ』(1980年)でのこれから来るであろうポストディスコ期の新たなダンスサウンドの感触は、慧眼と言っていいようなものだし、1曲毎に内包された “フロアで何かコトを起こしてやる!” という熱量みたいなものがひしひしと伝わってくる点は、林哲司が心の底からダンスミュージックを愛していることの証左なのではないだろうか。また、このアルバムのプロデューサー、ハッスル本多氏の手腕も大きく作用していたに違いない。



シティポップブームの文脈における林哲司へのスポットライトが明るくなればなるほど、筆者はイースタン・ギャング時代を黒歴史として封印していくのかな、と思っていた。でもそれは勘違いだった!

そもそも世界的ムーヴメントとしてブギーファンクの潮流がオーバーグラウンドに浮上してきた2013年にファーストアルバム『フラッシャー』(1979年)がCD化されたり、以後イースタン・ギャングの7インチシングルが高騰していくのと並行して、1980年代前半から2010年代前半にかけてというB級ディスコ・欧州系ディスコにとって失われた30年を経て、大いなる追い風が吹き始めているのだから。



イースタン・ギャングの2枚のアルバムを中心とした林哲司が手掛けたディスコミュージックを一気にCD化した、デビュー50周年記念『ディスコティーク:ルーツ・オブ・林哲司』の発売は、全(欧州系)ディスコファンにとっては朗報以外のなにものでもないだろう。失われた30年が本格的に明け、いよいよB級ディスコ再評価の潮流はここまできたか! と喜ばしく痛感するしかない。

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2023.06.19
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カタリベ
1962年生まれ
KARL南澤
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