カリオストロからナウシカまで。宮崎駿の「空白の4年間」
宮崎駿監督に「空白の4年間」があるのをご存知だろうか。それは―― 1979年12月に公開された自身初の監督映画『ルパン三世 カリオストロの城』から、1984年3月公開の映画『風の谷のナウシカ』に至る4年間である。
この間、宮崎監督は、カリ城の興行不振(驚くべきことに、公開当時は客が入らなかった)が響いてアニメ業界から干され、月刊誌『アニメージュ』に細々と漫画『風の谷のナウシカ』の連載を描き続けるくらいしか仕事がなかったのである。
当時、宮崎監督は39歳から43歳にかけて。普通なら、クリエイターとして最も脂が乗り切っているはずの年齢だ。ちなみに、かの黒澤明監督が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞し、「世界のクロサワ」と呼ばれ始めたのが40歳。『七人の侍』を発表したのが44歳である。
空白の4年間に宮崎駿が参加したプロジェクト「NEMO/ニモ」
もちろん―― 「空白」というのは、表向きの話。この間、宮崎監督はある作品のプロジェクトに参加している。残念ながら、その仕事は途中で降りてしまうが、その間に構想したいくつかのアイデアが、後の彼自身の作品に生かされることになる。
宮崎監督が降りた作品とは、日米合作の長編アニメ映画の『NEMO/ニモ』である。タイトルを聞いても、ピンとこない人も多いだろう。残念ながら、日本ではあまりヒットしなかった。だが、この映画については、完成した作品よりも―― その制作過程の話の方が、数十倍、いや数百倍面白いのだ。
ちなみに、今日―― 11月22日は、今から37年前の1982年に、宮崎駿監督が当時所属していたアニメ制作会社テレコム・アニメーションフィルムを辞め、この『NEMO/ニモ』のプロジェクトから降りた日に当たる。
ディズニーですらアニメ化できなかったファンタジー漫画「リトル・ニモ」
話は少しばかり、さかのぼる。
時に1978年夏――。一人の男がアメリカに渡り、ある漫画作品の映画化権を取得する。『リトル・ニモ』である。
それは、1905年から1916年まで『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』の日曜版に連載された一話完結のファンタジー漫画だった。主人公の8歳くらいの少年ニモが、毎晩のように夢の中で世界を巡り、冒険を重ね、幻想の世界をさまよった挙句、毎回最後のコマでベッドから転がり落ちて目が覚める―― というもの。かつて、ウォルト・ディズニーが存命中に、2度に渡りアニメーション化を試みるも、お蔵入りになった経緯を持つ。
そんな有名漫画の映画化権を取得したのは、当時の東京ムービー社長の藤岡豊サンだった。同社と言えば、昭和40年代に『オバケのQ太郎』を始め、『巨人の星』『ムーミン』『アタックNo.1』『天才バカボン』『ルパン三世(1stシーズン)』『エースをねらえ』『ガンバの冒険』などの人気作品を次々と生み出した、アニメ黎明期の5大制作会社の1つである。
東京ムービー社長 藤岡豊の夢、それはアメリカに匹敵するフル・アニメーション映画
藤岡サンには夢があった。それは、「ディズニーに対抗できるフル・アニメーション映画を作る」こと。当時の日本のアニメと言えば、手塚治虫が採用・発展させたリミテッド・アニメーションが主流で、アメリカとは全く別の進化を遂げていた(それはそれで、いわゆるジャパニメーションが世界を席巻する礎になるが、それはまた別の話)。
そこで、藤岡サンはフル・アニメーションを手掛ける新しい制作会社を作り、そこをベースに、日米合作のアニメーション映画を画策する。そのための原作が前述の『リトル・ニモ』だった。制作会社は “テレコム・アニメーションフィルム” と名付けられ、新聞に募集広告を出したところ、1000人を超える応募があり、アニメーション経験のない43人を採用する。下手にリミテッド・アニメーションの経験がない方がいいと、その思想は徹底していた。
これから彼ら素人集団を、フル・アニメーションの精鋭に育て、『リトル・ニモ』を制作する―― なんと気の遠くなる作業だろう。だが、藤岡サンは本気だった。最初の年に呼ばれた講師は、手塚治虫の元アシスタントで、後に東映動画に移って『狼少年ケン』を手掛けた天才アニメーター・月岡貞夫サンだった。そして翌年、『ルパン三世』でお馴染みの大塚康生サンが2代目講師として呼ばれ、テレコムに移籍する。
大塚康生・高畑勲・宮崎駿、精鋭三氏が「テレコム」に揃い踏み!
これが、運命の分岐点だった。
藤岡サンは「ニモに向けて、そろそろ実践で練習を」と、劇場版『ルパン三世』の2作目の制作をテレコムにやらせようと思い立ち、大塚サンに監督を打診する。これに慌てた大塚サンが旧知の宮崎駿サンに相談したところ―― 「コナンの借りがあるから」と快諾。かくして、宮崎サンもテレコムに移籍して、『ルパン三世 カリオストロの城』が作られる。
更に翌年、今度は劇場版『じゃりン子チエ』の企画がテレコム内で持ち上がり、またもや藤岡サンは大塚サンに監督を打診するが、これに慌てた大塚サンが今度は旧知の高畑勲サンに相談したところ―― 「原作を読んで決める」と言われ、数日後に快諾。高畑サンもテレコムに移籍する。
気が付けば、テレコムには大塚康生、高畑勲、宮崎駿の精鋭三氏が揃い、あの43人も『カリ城』と『チエ』という実践を踏んで、一人前のアニメーターに育っていた。機は熟しつつあった。そんな1981年春、藤岡サンは「ほのぼのレイク」で知られる消費者金融のレイクから出資を受けることで合意し、40億円もの資金を得る。そして満を持してアメリカへ旅立った。
プロデューサーはゲイリー・カーツ、脚本にレイ・ブラッドベリまで登場!
ここから、話は急展開を遂げる。藤岡サンは人を引き寄せる不思議な力があり、単身、ハリウッドに乗り込んだ彼は、まず、ディズニー草創期の『白雪姫』や『ピノキオ』などを手掛けた伝説のアニメーター集団 “ナイン・オールドメン” から、フランク・トーマスとオリー・ジョンストンの協力を取り付ける。
そして、次にジョージ・ルーカス(!)に面会し、映画の合作を持ちかけるが、ルーカスは「自分は忙しいので関与できないが、代わりにプロデューサーを紹介しよう」と、『スター・ウォーズ』のゲイリー・カーツに話をつけ、ゲイリーはこれを快諾。さらに、ゲイリーの推薦で、脚本は超大物 SF作家レイ・ブラッドベリに決まった。日米合作アニメーション映画『NEMO/ニモ』プロジェクトは始動した。
トップダウンと合議制、日米で大きく違ったプロジェクトの進め方
1982年夏、ナイン・オールドメンのフランクとオリーの招きで、大塚・高畑・宮崎ら日本側のアニメーションスタッフが “研修会” の名目で渡米する。伝説のアニメーターに会えるとあって、3人は心を躍らせるが、研修会場に現れたフランクとオリーは、宮崎サンの描いたスケッチを見て、こう嘆いて見せたという。「もはや我々が教えることは何もない」――。
もともと、日本側とアメリカ側では、プロジェクトの進め方に大きな違いがあった。役割分担が明確で、プロデューサー(ゲイリー・カーツ)の権力が絶対であるハリウッドシステムに対し、日本側はアニメーターが積極的に意見を出しながら、合議制で決めるスタンスだった。
宮崎駿の違和感、そして「もののけ姫」「風の谷のナウシカ」の原型
宮崎サンは、かなり早い段階から『リトル・ニモ』の企画に違和感を唱えていたという。「映画はもともと夢には違いないが、これは夢だと言って始まるのでは、観客は白けてしまうだけだ」―― そうして藤岡サンに別案を提示したらしい。それは、戦国時代を背景に、お姫さまと獣に変身させられた青年の話―― そう、後の『もののけ姫』である。
また、宮崎サンはそれが受け入れられないと知ると、今度は “風使いのヤラ” というキャラクターを考案し、スケッチに描いて藤岡サンに再度見せたという。しかし、これも却下―― いうまでもなく、後の『風の谷のナウシカ』である。
元より、藤岡サンは企画の骨格を変える権限を持っていなかった。全てはゲイリー・カーツの胸の中にあったのである。
1982年11月22日、宮崎駿サンはテレコムを退社し、『NEMO/ニモ』の企画からも降りる。
話はこれで終わらない。翌83年3月12日、今度は高畑勲サンがプロット案でゲイリー・カーツと衝突して、降ろされる。その日、大塚サンは深夜まで藤岡サンにゲイリーを説得するよう懇願するが、叶わず――。
迷走を始めた「NEMO/ニモ」プロジェクト。輝いていたのは「黄金の6年間」?
高畑勲・宮崎駿という稀代の才能を自ら手放した『NEMO/ニモ』プロジェクトは、以後、迷走を始める。ゲイリー・カーツは独裁化し、スタッフは空中分解。もはやこれまでと藤岡サンはゲイリーを解任。ブラッドベリも脚本を降り、40億円あった資金も底をつく。プロジェクトは一旦、中断を余儀なくされた。残ったのは、近藤喜文サンと友永和秀サンらが制作した3分半のパイロットフィルムだけだった。
その後、プロジェクトは3年ほど休止したのち、再び始動するが、もはやかつての輝きは失われていた。後年、アメリカ側のスタッフが、藤岡サンの持っていた宮崎駿サンの作画スケッチを見て、「なぜ、これを採用しなかったんだ?」と問い詰めたという逸話が残されている。
1つだけ確かなことがある。
あの日―― 藤岡豊サンが「リトル・ニモ」の映画化権を取得した1978年の夏から、高畑勲サンがゲイリー・カーツに降ろされる1983年3月まで、間違いなく、『NEMO/ニモ』プロジェクトは輝いていた。
これもまた、「黄金の6年間」という時代に合致するのは、単なる偶然だろうか。
※ 指南役の連載「黄金の6年間」1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。
■ 新しいクルマ文化の始まり「ホンダ・シティ」とマッドネスのムカデダンス■ 黄金の6年間:中島みゆき「ひとり上手」フォークからポップミュージックへ■ 黄金の6年間:傑作「蒲田行進曲」クロスオーバー時代に生まれた化学反応!etc…
2019.11.22