その幻想的なイラストを目にするたびに、穢れのない少年時代の記憶と、得体の知れない畏怖が同時に胸をよぎる。猫が主人公のアニメ版『銀河鉄道の夜』は、僕にとっては迷宮入りクラスの文部省特選トンデモ映画だ。
1985年7月公開。僕は鹿児島市立武岡小学校6年生。一学期の最終日、教室で配られたたくさんの夏休み向け配布物の中に、星空で語らう青と赤の猫2匹が描かれた映画割引チケットがあった。
国語の教科書に「クラムボン」なる言葉が印象的な童話『やまなし』が載っていたから、詩人、童話作家・宮沢賢治の名前は知っている。『銀河鉄道の夜』は読んだことがないけれど、僕らは、この映画は『銀河鉄道999』に似たハラハラドキドキ宇宙アドベンチャー大スペクタルアニメ活劇に違いないだろうと見当をつけた。原作のジョバンニとカムパネルラが猫じゃなくて人間だとは知るよしもない。
で、その夏に僕が映画館に観に行ったかというと、行ってない。先に映画を観た友人K君が「ようわからんかった」と言うのである。ついでに「最後にカムパネルラが溺れて死ぬ」とネタバレまで付け加えてくれたから、もう映画館に行くのはやめた。
それから一年ほど後にテレビ放送でこの『銀河鉄道の夜』を観た。K君が言ったとおり『銀河鉄道999』とは大違いだ。断章的なストーリーが淡々と進み、情緒あふれる無国籍ふうの風景と、異様なほど荘厳な音楽が不気味に目と耳を刺激する。なんだかお勉強させられているような気分だ。義務教育的ファンタジー映画。僕の感想はそんなところだった。
さて、時代は一気に下って2018年。30数年ぶりに再びこの映画を観たのであるが… おいおい、ぜんぜん義務教育的じゃないじゃないかっ! 宮沢賢治のトンデモ性、なんじゃこりゃ感がハンパない。文部省特選で大丈夫なのか!?
そのブッ飛んだイマジネーションは、もはや日本文学史を越えてロック史の領域だ。
死者を天上へと運ぶ銀河鉄道の白鳥の歌の中に、ビートルズの風刺と普遍性も、ローリング・ストーンズのサイケな土着性も、レッド・ツェッペリンの神秘宗教性も、キング・クリムゾンの不条理と牧歌も、すべて含まれている。
無論ブルーハーツやスピッツの日本語ロックの根っこだって息づいている。
大正時代に岩手の自然の中で書かれたとは信じがたい、世界レベルの夢オチ幻想絵巻。これを巨匠ぞろいの制作陣で、よくぞ猫の姿でアニメ化してくれたものだと感服しきりである。詳細な内容理解は、僕にはちょっと手に負えない。再鑑賞後も猫のジョバンニとカムパネルラに自分の少年時代をぼんやり重ねるばかりだ。
85年の小6の夏。時の何かを知らずに、あの日当たり前にあったものが、銀河鉄道の夢の出来事みたいに今はもう僕の目の前にない。その間に失ったものと得たものは、結局半分半分だと思いたいなぁ…。
小6以来、音沙汰のないK君… 元気だろうか?
2018.06.19
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