全盛期を迎える直前のスマッシュヒットこそ重要なエポックメーキング
全盛期のちょっと前にこそ、真の名曲がある。
例えば、一昨年、デビュー40周年記念アルバムをリリースした竹内まりやサン。彼女が一躍ブレイクした曲と言えば、初めてベストテン入りした4thシングルの「不思議なピーチパイ」だけど、その1つ前のシングル「SEPTEMBER」は、オリコンこそ最高39位と低迷したものの、作詞・松本隆、作曲・林哲司による珠玉のナンバーは、彼女の魅力を開花させた真の名曲だと言われる。
小泉今日子のアイドル時代も同様だ。よく、「迷宮のアンドローラ」や「なんてったってアイドル」あたりが代表曲に挙げられがちだけど、彼女の個性を輝かせ、当時の男子中高生を一瞬で虜にしたのは、そのちょっと前にリリースされ、康珍化のコミカルなワードセンスが光った「渚のはいから人魚」に他ならない。
森高千里がブレイクしたのも、南沙織をカバーした「17才」でビジュアル路線にイメチェンしたのがキッカケと思われがちだが―― 実はその1つ前にリリースされた「ザ・ストレス」で既にその路線にシフトしており、業界内では早々に「今、森高が面白い」と話題になっていた。
そう―― ミュージシャンやアイドルの全盛期を迎える直前のスマッシュヒット。それこそが、彼らの歴史を語る上で外せない、重要なエポックメーキングなのだ。
中島みゆきのブレイクを決定づけた「ひとり上手」
その理論に倣えば、稀代の歌姫・中島みゆきの場合も、第一次全盛期と呼ばれる80年代前半を象徴する代表曲と言えば、誰しも「悪女」を挙げると思うが―― 実はその1年前にリリースされた「ひとり上手」こそ、彼女のブレイクを決定づけたと言っても過言ではないのだ。
ということで、今回は今から39年前の今日、1980年10月21日にリリースされた中島みゆきの9作目のシングル「ひとり上手」を取り上げたい。
私の帰る家は
あなたの声のする街角
冬の雨に打たれて
あなたの足音をさがすのよ
「オールナイトニッポン」でポップなディスクジョッキーに変貌
話は少しばかり、さかのぼる。
時に1979年4月2日、月曜日深夜1時―― 前任者の松山千春からバトンタッチされる形で、中島みゆきがパーソナリティを務めるラジオ番組が始まった。ニッポン放送の『中島みゆきのオールナイトニッポン』である。
ちなみに、当時の曜日ごとのパーソナリティは、火曜が所ジョージ、水曜がタモリ、木曜が桑田佳祐、金曜が近田春夫、そして土曜が笑福亭鶴光―― 今なら絶対不可能なラインナップだ。
さて、その中島みゆきのオールナイトニッポン、今となっては別段驚くことではないが、その軽妙な語り口にリスナーが腰を抜かしたのだ。それまで暗く、重たい失恋歌ばかり歌っていた彼女が、いきなりポップなディスクジョッキーに変貌したのである。
「あれは、ラジオ用に仕立てられた別人なんだよ」
「音楽とラジオ、どっちが本当の彼女なんだ!?」
―― リスナー間で、そんな論争が起きたのも、今となっては微笑ましい。何せ、当時の彼女はテレビ出演を控えており(ちなみに、『ザ・ベストテン』の第1回放送の出演辞退第1号が中島みゆき)、彼女が生で喋るところを、ほとんど誰も見たことがなかったのだ。
とはいえ、明るく、コミカルな姉御キャラのラジオはたちまち大評判となる。例えば「今日も元気だ、男がうまい」のコーナーでは、彼女と交友関係のある男性ミュージシャンたちを、ユーモアを交えつつ辛口で寸評し、同郷の松山千春は度々餌食になった。また、「噂のみゆき」というコーナーでは、学校で評判になった中島自身の噂話をリスナーから募集し、露出が少ないゆえの自虐も含めた笑いを楽しんだ。
コンサートツアー中止宣言は中島みゆき転機の合図?
しかし―― その反面、音楽の方面では暗く、重たい路線が続く。翌1980年4月にリリースされた7枚目のアルバム『生きていてもいいですか』は、「うらみ・ます」や「エレーン」、「異国」などのダウナー系の楽曲が多くを占め、本人自ら “真っ暗けの極致” と言い放つまでに。正直、彼女自身、迷走しているようでもあった。
ここで、ある事件が起きる。突如、彼女は1980年5月から行われる予定だった同アルバムの春のコンサートツアーを中止すると発表する。曰く「惰性でやりたくない」―― と。思えば、これが歌姫・中島みゆきの転機の合図だった。
その兆候は早くもラジオに現れる。ツアー中止発表から1ヶ月後の6月9日、番組ゲストに、松任谷由実―― ユーミンが呼ばれたのである。
中島:ダンナは元気ですか?
松任谷:元気ですよ。うん、ええ。
中島:あのね、こないだ、とあるコンサートに行ってね。ピアノ弾いてる後ろ姿を見てね。
松任谷:どういうふうに思いました?
中島:もしかするとユーミンってのは、渋好みだなあと。
松任谷:あっそう。それいい意味?(笑)
中島:別に年増好みとかそう言うことでなく(笑)。もしかしていいの捕まえたんじゃないかなぁ、と。
―― こんな感じで、別段とりとめのない会話が続く。互いに、終始リラックスしていたのが印象的だった。当時から2人は周囲からライバル視され、太陽と月のように例えられていたものだが、差しで話す2人はまるで古い戦友に再会したようだった。
フォークソングからポップミュージックに脱皮したアルバム「臨月」
中島みゆきが次の8枚目のアルバム制作を始めるのは、この時期である。そして翌1981年3月5日にリリースされる。タイトルは『臨月』。本人曰く「制作に10ヶ月かかったから」――。実際、新しい命を授かったかのように、そのアルバムは明るさに満ちていた。前作までの暗く重たい作風は影をひそめ、全体に軽く吹っ切れたポップなメロディラインが印象的だった。早い話が、フォークソングからポップミュージックに脱皮した1枚となった。
同アルバムは4人のアレンジャーが参加している。奇しくもそのうちの1人がユーミンの旦那の松任谷正隆氏で、彼は3曲を担当した。全体にポップな印象が強いのは、彼の影響によるところも大きいだろう。同アルバムの制作を始めたころに、ラジオのゲストにユーミンを呼んだことが何かしら影響したのかもしれない。
その『臨月』のリリースからさかのぼること5ヶ月前、先行シングルカットされたのが、先に紹介した「ひとり上手」だった。
少々早すぎた?“おひとり様”を奨励する失恋ソング「ひとり上手」
あなたの帰る家
私を忘れたい街角
肩を抱いているのは
私と似ていない長い髪
少々、回り道をしてしまったが、いよいよ本題である。いや、心配しなくても、ここから先の話は長くない。
同曲を一聴して印象に残るのは、その軽快なメロディーラインだ。独特な中島節を残しつつも、暗く引きずらない。歌詞も基本、失恋ソングだが、そこまでの重さはない。むしろ、自身の不幸な境遇をどこか楽しんでいるようにも見える。
ひとり上手と呼ばないで
心だけ連れてゆかないで
私を置いてゆかないで
ひとりが好きなわけじゃないのよ
そうだ、これは少々早すぎた “おひとり様” を奨励する歌なのだ。自虐を込めつつも、ひとりを楽しむ歌なのだ。失恋から時間も経ち、いつしかひとりでいる境遇に慣れてしまった自分がいる。ひとりで夕食を食べ、ひとりで休日を過ごし、ひとりで見知らぬ土地を旅する―― そう、“ひとり上手”。恐らくそれは、彼女が自身につけた呼び名なのだ。
実際、のちに中島はラジオに「ひとり上手」のコーナーを設け、リスナーに “ひとり上手” だと思った自画自賛話を募集している。「ひとりが好きなわけじゃないのよ」と歌いつつ、心の底では、それも悪くないと思っていた節がある。
「ひとり上手」は、オリコン最高位が6位、40万枚以上を売上げるスマッシュヒットを記録した。そして翌年、あの「悪女」がリリースされ、ご承知の通り大ヒット。中島みゆきは80年代前半、第一次全盛期を迎える。
「黄金の6年間」とは、東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった1978年から83年までの6年間を指す。それは、様々な分野がカオスのように過渡期だった時代でもある。フォークからニューミュージックへと音楽のスタイルが移り変わったのもそのひとつ。
中島みゆきの場合、それが「ひとり上手」だったのだ。
※2019年10月21日に掲載された記事をアップデート
2021.02.23