時は1983年7月7日――
ひとりのボクサーが世界の頂点を目指しリングに上がろうとしていた。WBC 世界スーパーライト級タイトルマッチである。
喧嘩っ早いことで有名なその若者は、中学・高校と地元大阪でその悪名を轟かせていた。そんな中、彼はボクシングというスポーツに出会う… それは、その後待ち受ける彼の未来へと大きく影響を及ぼすことになった。
大学進学後、彼はそのボクシングでオリンピック代表を目指すが――
1980年、前年に起こったソ連のアフガニスタン侵攻の影響を受け、日本選手団がモスクワオリンピックをボイコットする事態に。当然彼もその煽りを食らい、散々な状況に巻き込まれてしまった。もはや代表入りを目指すことは許されず、メダルという夢そのものを断念せざるを得なかった… そして彼は潔くプロへの転向を決める。
するとどうだろう… 天性の才能なのか、彼はデビューから12試合連続ノックアウト勝ちという破竹の勢いで、一気に世界戦への切符を手にしたのだ。
打ち合い殴り合いを心情とする攻撃型ボクシング。一歩も引かず、相手をノックアウトへと追い込んでゆくその姿。観ている客は、スカッと爽快で気持ち良かったことだろう。そのファイトスタイルに惚れこんだファンは、彼のことを親しみを込めてこう呼んだ…「浪速のロッキー」と。その人気は大阪のみならず、瞬く間に全国へと広がっていった。
もうお分かりだろう。ライザップの CM を観て、もしかしたら過去の片鱗を感じた人がいるかも知れない。「浪速のロッキー」とは、現在タレント、役者として活躍する赤井英和その人である。
80年代は具志堅用高をはじめ、渡辺二郎、渡嘉敷勝男、浜田剛史、井岡弘樹など、世界チャンピオンが多数誕生したボクシング黄金期である。もちろん赤井英和もそうした期待を一身に受けた逸材であった。
特に赤井は “男が男に惚れる” タイプで、試合前後のイケイケコメントも面白く、その人気は当時の世界チャンピオン渡辺二郎を凌ぐほどであった――
さて、前置きが長かったけれど、ここからが本題である。この赤井に惚れ込んで、自身の持つ楽曲の名称をわざわざ変えてまで「赤井のテーマ曲」として捧げたグループがあるのだ。その名を浪花エキスプレス(NANIWA EXPRESS)という。
80年代当時、関東ではカシオペア、THE SQUARE(現在の T-SQUARE)という二大フュージョングループがデビューしていて、すでにその勢いは全国的であった。そこに殴り込んできたグループが関西フュージョンの旗頭、上方フュージョンと言われた浪花エキスプレスだった。
彼らのデビューは1982年。リーダーの清水興(ベース)岩見和彦(ギター)中村建治(キーボード)東原力哉(ドラム)青柳誠(ピアノ・サックス)の5人で構成される。
僕はこの浪花エキスプレスの情報を友人から仕入れ、『ノー・フューズ』(1982年)というデビューアルバムを早速購入した。1983年、高校2年生の頃であるそして、この1曲目「BELIEVIN’」を聴いた瞬間にぶっ飛んだ。
何かを予感させるようなイントロ… そこからテーマに移ると突然の変態リズムである(失礼)。そして、フュージョン小僧なら一度はコピーしたであろう「ドイツパツパツドドタチーチー」というドラムとベースから繰り出される強烈なビートに打ちのめされた。これはリーダーである清水興と “裸足のドラマー” としてすでに人気を博していた東原力哉ならではの超ド級絶妙フレーズである。
特にこの曲はコード進行が美しく、それでいてハードな曲調が関東フュージョンとは一線を画していて、僕はご飯を食べるのを忘れて聴き入ってしまった。もはや完全に虜である。
それからというもの「ライブ音源を聴きたい…」と、悶々とした日々を過ごしていたのだけれど、またまた友人から音楽番組『セッション’83』(※注1)に出演するというビックな情報が入ってきた。
当時、家には畳一畳ほどのスペースを奪うデカさの SANSUI のステレオがあり、僕は NHK-FM が放送するこのラジオ番組を家族の喋り声に邪魔されることなく録音することができた。父の “新し物好き” が功を奏したのである(無論、僕もこの遺伝子を受け継いでいる)。
確か19:00からの1時間番組だったと思う。時間丁度に録音ボタンを押すと、番組司会者であった牧岩雅夫さんの「曲は、レッドゾーン!」の声に被る勢いで、怒涛の演奏が始まった――
イントロから衝撃的だったのは、ツーバス(※注2)かと思わせる頭抜き三連符のキック。およそ人の足とは思えないスピードでバスドラムを連続で鳴らし、譜割りできないフレーズで叩きのめす。そう、この曲こそ赤井英和さんのテーマ曲として彼らが捧げた「RED ZONE」だ。
荒れ狂う青柳誠のサックス、完全に音を外したチョーキングで泣かす岩見和彦のギター、真似できない独特のチョッパーサウンドを繰り出す清水興。そして、極めつけは中村建治自作のショルダーキーボード「ケンジター」のサウンドである。
この当時、ショルダーキーボードと言えばジョージ・デュークが有名だったけれど、中村のサウンドはヤン・ハマーばりのピッチベンドを多用したディストーションサウンドだった―― ピッチベンドとは、いわゆるギターのチョーキングと同じプレイを可能にする装置で、中村から繰り出されるソロは、まさにギターそのもの。驚愕である。
さて、カシオペア、THE SQUARE と人気の両グループもこの公開ライブ番組に出演しているのだけれど、牧岩さんという司会がいらっしゃるのでメンバーは演奏に集中してコメントなど喋らないのが普通だった。あの「司会屋ミノル」とまで言われたカシオペアの向谷実でさえ黙っていたほど… それはもう実に NHK らしい純粋な音楽番組だったのだ。
ところがここに番組史上思いっきり風穴を開けてしまったのが、浪花エキスプレスのリーダー清水興である。
演奏が終わった瞬間――
「えー花の東京に参りまして…」
「ナニワのエキスでビーリビリ!」
などと、ベラベラベラベラ、喋る喋る(笑)。この放送を境に司会者がプレイヤーにコメントを求めるようになったのだから、その影響力というか反響は相当だったのだろう。オロオロしながらも抜群のアドリブで乗り切った牧岩さんの司会は、本当素晴らしかった。
その清水興曰く――
「俺たちが目指すのは心地よく聴くような音楽じゃない。レストランでご飯を優雅に食べるための BGM なんかじゃあない。その時メシを食ってたら、その箸を止めさせて聴き入るようなサウンドを出したいんや」
という名言を僕は今でも忘れない。音楽を聴かせるって、そういうことなんだ。
話は冒頭に戻り、赤井英和…
1983年7月7日に行われた WBC 世界スーパーライト級タイトルマッチは、第7ラウンドに赤井が TKO 負けを喫している。引退も危惧されたが赤井は現役続行を決意。
1985年に2度目のタイトル戦の前哨戦として大和田正春との試合に挑み、またしても KO 負け。この試合途中からすでに赤井の様子がおかしかったのだが、試合直後に意識不明の重体(急性硬膜下血腫、脳挫傷)に陥ってしまう。
すぐに緊急オペ、開頭手術へ―― 数日間生死を彷徨った後、奇跡的に助かったもののボクサーとしては引退せざるを得なかった。この辺りの流れは、後に赤井の初主演作となった自伝的映画『どついたるねん』(1989年公開)で再現され、現在の芸能界での活躍からはおよそ想像もできない壮絶な過去が、役者としての演技に活かされている。
浪花エキスプレスが捧げた「RED ZONE」まさに赤井英和の生き様そのものではないか。
※注1:
『セッション’83』は、1978年から続くジャズフュージョンを取り上げる音楽番組。現在も『THE SESSION 2018』として放送中。当時は NHK 505 スタジオでの公開収録。放送は番組時間内に演奏が終わらず、司会者の声と共に演奏がフェイドアウトしていくのが普通… それはラジオを聴く側としては、毎回一抹の切なさを感じる演出だった。
※注2:
「ツーバス=ツインバスドラム」とは、バスドラムを2個横並びにしてドコドコと両足で踏み鳴らす演奏方法、及びスタイル。コージー・パウエルが有名で、ビジュアル的にも優れていたためヘヴィメタル全盛期のドラマーは挙ってツーバスにしていた。
2018.08.21
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