新たな表現の可能性を模索した中森明菜
『BITTER AND SWEET』は1985年4月に発表された中森明菜の8枚目のアルバム(スタジオアルバムとしては7枚目)。前年11月に発表されたシングル「飾りじゃないのよ涙は」を受ける形でリリースされた。
この時期のシングルは、「少女A」でつけられた “性的に早熟な女の子” というイメージに引きずられすぎないように、新たな表現の可能性を模索していたという印象があった。作曲家に大澤誉志幸(1/2の神話)、細野晴臣(禁区)、高中正義(十戒)など、いわゆる歌謡曲の常連ではないアーティストを起用していったことも、新たなカラーを打ち出そうとする試みに見えた。
しかし、メロディやアレンジに目新しさがあっても、メインの作詞家として「少女A」を手掛けた売野雅勇が起用され続けたことで、その世界観は大きく変わることなく維持されていくこととなった。
もちろん、このことについて売野雅勇に非があるわけではない。むしろあえて「少女A」の不良性を打ち出すことで、飽和状態のアイドルシーンにおいて中森明菜に突出した存在感を与えるという功績の大きさは高く評価すべきものだ。しかし、その成功の副作用として、強烈なイメージと本人との落差をどう解消していくのか、という次の課題が生まれてしまうことも仕方がないことなのだろうと思う。
「飾りじゃないのよ涙は」が画期的だったのは、井上陽水というシンガーソングライターが作詞、作曲の両方を書き下していること。もちろん、井上陽水はそれまでの中森明菜の楽曲のテイストを踏まえた上で、新たな世界観を提供している。だからこそ、この曲は唐突なイメチェンではなく、中森明菜の表現の可能性を広げ、歌手としての意欲を刺激する作品になったのだと思う。
積極的にシンガーソングライターと向き合った「BITTER AND SWEET」
『BITTER AND SWEET』は、この「飾りじゃないのよ涙は」の成果を、さらにアルバムでより進化させようとしたアルバムではないかと思う。なによりも目立つのは、井上陽水以外の作家として、EPO、飛鳥涼、角松敏生、吉田美奈子が詞曲という形で作品を提供していること。これまでも詞曲の形での楽曲提供はあったけれど、ここまで積極的にシンガーソングライターと向き合ったアルバムはこれが初めてだと言っていいだろう。
また歌詞と楽曲を別な作家が手掛けている曲でも、新たな顔ぶれが起用されている。これまでの中森明菜の楽曲提供経験があるのは、「月夜のヴィーナス」の作詞を手掛けた松井五郎くらいだと思う。これまで中森明菜の軸となる世界観をつくってきた売野雅勇、さらにはもうひとつの軸を創ってきた来生えつこ×来生たかおのコンビもこのアルバムには参加していない。
『BITTER AND SWEET』の前作となるアルバム『POSSIBILITY』では、作詞陣を来生えつこ、売野雅勇、松井五郎、康珍化。有川正沙子といった職業作詞家で固めていたことを思うと、その対比には制作チームの並々ならぬ決意が感じられる。そして、おそらくそこには中森明菜自身の強い意向があったのではないか… という気もする。そしてアルバムを聴いた印象も、いわゆる歌謡曲的な音作りから一歩はみ出して、よりダイレクトな音楽表現を追求しようとしているように感じられる。
楽曲を提供するアーティストの際立った個性
たとえば1曲目の「飾りじゃないのよ涙は」は、いわばこのアルバムのリードナンバーだが、シングルのテイクとは違うミックスで、カラフルな装飾音を押さえ気味にしてよりリアルにロックビートを感じさせる仕上がりになっている。
続く「ロマンティックな夜だわ」はEPOが提供したアダルティなテイストのエレクトロニックポップ。ナンバー。「う、ふ、ふ、ふ、」(1983年)などのヒット曲でも知られるEPOだが、この『BITTER AND SWEET』とほぼ同じ時期に、みずからの代表作ともなるアルバム『HARMONY』をリリースするなど、まさにアーティストとして脂がのっている時期の楽曲提供となった。「ロマンティックな夜だわ」はEPOならではの伸びやかさをベースにしながら、中森明菜の大人びた雰囲気をも意識した洗練されたシティポップナンバーだ。アレンジはEPOの作品を手掛けている清水信行が担当している。つまり、EPOはこのアルバムに、楽曲だけでなく自らの音楽的テイストも提供しているのだ。
続く「予感」は “CHAGE&ASKA” の飛鳥涼によるバラードで、アレンジを椎名和夫が手掛けている。椎名和夫は、鈴木慶一らの “はちみつぱい”、“ムーンライダース” に参加した後、“RCサクセション” の「雨あがりの夜空に」(1980年)の編曲をおこなったり、山下達郎のツアーにギタリストとして参加したりしていた。「予感」のアレンジも、ドラムに青山純、ベースに岡沢章、キーボードに奥慶一という手練れのスタジオミュージシャンを配してハイクオリティのAORサウンドを提供している。椎名和夫は「予感」の他にもう一曲、ソウルテイストあふれるヴォーカル・ミュージックで定評のあるシンガーソングライター、吉田美奈子が楽曲を提供する「APRIL STARS」のアレンジも手掛けている。
ちなみに椎名和夫はその後レコード大賞を受賞した「DESIRE -情熱-」(1986年)の編曲も手掛けているが、その端緒がこの「予感」だったと言えるだろう。
さらに、角松敏生が「UNSTEADY LOVE」と「SO LONG」の2曲を提供していることも注目だ。角松敏生も『BITTER AND SWEET』の一か月後にニューヨークレコーディングを含む話題のアルバム『GOLD DIGGER〜with true love〜』をリリースするなど、コンテンポラリーダンスミュージックのトップアーティストとして脚光を浴びていた存在。角松敏生のトラックも、ドラムに江口信夫、ベースに青木智仁、キーボードに友成好宏、ギターに今剛など、角松サウンドの中核とも言えるプレイヤーたちが参加して、ハイクオリティなコンテンポラリーダンスサウンドを聴かせている。
この他にも、インターナショナルスケールで活動を行っていた “サンディ&サンセッツ” のサンディが作詞、久保田麻琴が作曲した「BABYLON」(井上鑑・編曲)、パーカッショニストの斎藤ノブが結成していたセッショングループ “AKA-GUY”(パーカッション:斎藤ノブ、ドラムス:島村英二、ベース:長岡道夫、キーボード:新川博、ギター:松原正樹、ヴォーカル:浜田良美 / 与詞古)が手掛けた「DREAMING」、など、楽曲を提供するアーティストの際立った個性を薄めるのではなく、“生” のままアルバムに持ちこんで行こうとする姿勢が目立つ。
シンガー、表現者としてのギヤを一段上げた「BITTER AND SWEET」
こうして見ると、『BITTER AND SWEET』は、中森明菜にとってきわめて挑戦的なアルバムだったと感じられる。これまでに接点を持ってこなかった、リアルタイムの音楽シーンでクリエイティブなアプローチをおこなっている才能と出会い、しかも作詞、編曲といったこれまでの中森明菜らしさを担保してきた要素を捨てて、それぞれのアーティストのフィールドに自分からは入って行きながら、一枚のトータルなアルバムとして成立させようとする。
しかし、『BITTRT AND SWEET』を聴く限り、「飾りじゃないのよ涙は」で行ったチャレンジをアルバムのスケールで行おうというきわめて大胆な試みを、中森明菜は見事にチャレンジを成功させている。
なによりもヴォーカルが生き生きとしている。それも個性豊かな楽曲群と勝負して歌でねじ伏せるというのではなく、彼女のヴォーカルがそれぞれの楽曲の世界観をさらに魅力的に感じさせているのだ。楽曲とヴォーカルの親和性がきわめて高く、それもきわめて高い次元で作品として成立しているのだ。そして『BITTRT AND SWEET』の作品としての完成度の高さは、同時にシンガーとしての中森明菜の表現力の豊かさ、キャパシティの広さをリスナーに強く印象付けることにもなっているのだ。
『BITTRT AND SWEET』は、中森明菜のシンガー、表現者としてのギヤを一段上げたアルバムと言えるだろう。彼女はこのアルバムから4か月後にリリースされたアルバム『D404ME』でさらに大胆なチャレンジを展開して見せたのち、セルフプロデュースのアルバム『不思議』でさらに独自の表現世界に入っていくことになる。
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2023.02.22