4月10日

ブルース・スプリングスティーン初来日公演「BORN IN THE USA ツアー」の真実

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ブルース・スプリングスティーンの初来日公演が代々木第一体育館で開催された日
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記念すべき初来日公演、イントロと同時に巻き起こった超最大級の歓声


1985年4月10日。代々木第一体育館の会場付近には開場の数時間前から待ちきれないファン達が集っています。もちろんほとんどが男子です。異様な熱気のまま開場し、客電が落ちてから場内にとどろき渡る “BRUUUUUCE” の地響き。

これは USツアーでもお馴染みの光景ですが、ライブが始まる前の儀式です。今か今かと待ちわびているファンの雄叫びです。そして「BORN IN THE U.S.A.」のイントロと同時に巻き起こった超最大級の歓声。叫びや悲鳴に近い絶叫は、今まで体験したことがないほどの特別な感情と興奮を与えてくれました。

この瞬間、場内の大半のファンは泣いていたかもしれません。私は泣いていました。クリーブランドで初めてライブを観て以来、シカゴでも観ました。でもこの夜のライブが一番の想い出です。私が、ブルース・スプリングスティーン担当ディレクターとして『BORN IN THE U.S.A.』を発売し、そして記念すべき初来日を迎えることができたことは、私の洋楽ディレクター人生において最高の幸せでした。

難航していた東京公演の会場調整、代々木第一体育館になった決め手は?


そんなスプリングスティーンの『BORN IN THE U.S.A. ツアー』のファーストレグは1984年6月から1985年1月下旬まで。アルバムは後に2,000万枚セールスを記録しますが、この北米ツアー終了時点で既に1,000万枚を売ってました。ツアーの大成功ぶりは社会現象化し、来日公演も待ち望まれていました。そして年明け、いよいよセカンドレグにあたるパシフィック(オーストラリア&ニュージーランド)エリアの日程がコンファームされた後、日本の興行会社宛てに4月上~中旬での日本公演の打診が入ったようです。

それから日本公演の交渉が始まりました。日本側の交渉相手はウドー音楽事務所。しかし、会場の最有力候補である日本武道館の4月は公式行事も多く、日程調整がつきません。となると東京会場のキャパシティ的には、代々木第一体育館(通称オリンピックプール)ぐらいしかありません。実はこの代々木第一体育館では、この前年、洋楽オムニバス・アーティストによる初めてのコンサートが行われましたが、音響的には決して満足いくものではなかったようです。

そういう問題で招聘元としては会場の決定に逡巡していたようですが、スプリングスティーン側からの「大丈夫。我々に任せてくれ」の力強い言葉が決定の後押しになっています。というのも、この前年のイベントを仕切っていたチームが、まさにこの『BORN IN THE U.S.A. ツアー』の舞台音響照明スタッフだったからなのです。この会場で一度やった経験から、満足できる音を出せる自信があったようです。

黒塗りのハイヤーを拒否するブルース・スプリングスティーンという男


こうして1985年4月7日、いよいよスプリングスティーンの日本上陸です。来日公演の場合、我々レコード会社スタッフが成田空港に出迎えに行くことはありません。ただ、この時ばかりは、担当者の私は、いてもたってもいられず成田まで出迎えに行きました。後にも先にも空港で出迎えたのはこの時だけです。

私はゲートから現れたスプリングスティーンの姿にオーラを感じ、嬉しくて涙ぐんでいました。しかし、ファンだったのはこの時まで。挨拶後、速攻で電車で都内へ戻りましたが、ホテルでの出迎えの時には、もういつもの仕事モードに切り替わっています。

さて、彼等がホテルに到着した時に驚いたことがあります。バンドメンバーが乗ったとみられるワゴンが、ホテルの車寄せに着いたかと思うと、助手席から飛び出して仲間のためにドアを開ける男がいます。これがスプリングスティーンだったのでした。

後から聞いて嬉しく思ったのですが、彼は黒塗りのハイヤーを拒否し、「バンドメンバーと一緒に移動できるワゴン」を要求していました。ただし、一つだけ条件があり、「助手席は彼のためにリザーブしてくれ」とのことでした。なんとも素敵な注文ではありませんか。チームであることを一番大事にしているスプリングスティーンです。特にこの頃の彼は、新品のシャツやジャケットを嫌ってましたし、求めるものは質素なものか中古品。これで十分と言ってました。

少しでも日本のファンに近づきたい!セットリストは試行錯誤の連続


スプリングスティーンにしても初めてのアジア地区でのショーです。彼とて初日のステージに上がる前までは緊張していました。ですから巻き起こった大歓声に、私も心からホッとしました。彼のステージングは、オーディエンスとのコミュニケーションを特に大事にしています。曲導入で語りを入れつつイントロにつなげたり、観客とのやりとりを楽しんだり… と、それだけに MC や語りが重要な役割を果たしています。この一体感が彼のライブの根幹を成すものですが、ここに戸惑いを感じたようです。

初日が終わって、語りに言葉の壁を感じ、二日目に新しいセットリストを準備しましたが、まだ調整が必要です。曲紹介に長いセリフが必要な歌は思い切ってカットし、日本人に馴染みのない曲もやめました。こうした試行錯誤を経て東京公演の三日目でやっと日本公演の基本型ができあがったようです。何故あの曲は一回だけしかやってないの? とか、名曲なのにやらないの? と思われた方、それにはこういう理由があったからです。少しでも日本のファンに近づきたいという彼の優しさがそうさせています。

ちなみに、セットリストは一部が終わってブレイクの時に二部の曲目をつくります。二部のあたまに速攻で関係者に曲目コピーが配られ、バンドメンバーも、プレイする曲を直前に知らされるわけです。もちろんコアの楽曲や大きな流れは変わりませんが、毎回違う曲が入ります。この、バンドに与える緊張感も彼が求めているものでした。

広島平和記念資料館で垣間見たその真摯な人柄


ツアー一行はひとつの会社が移動するようなもの。ステージを作る基本スタッフとは別に、専任コック、トレイナー、ドクター、会計士など色々な職種の人も同行します。ちなみにライブ当日の食事は会場で栄養士が取り分けてくれたものを摂ります。ブルース・スプリングスティーンを頂点に巨大なビジネスが動いているわけですから、もちろん彼のコンディショニングのキープが最重要テーマです。そんななかでも彼は、オフには自分の足でこの地を見たいと地下鉄に乗ったり、筋トレのためジムに通ったり、皇居前をジョギングしたりと、日本滞在を楽しんでいました。

スプリングスティーンの人柄を伝えるエピソードは尽きません。彼が反核運動に賛同しているのは有名な話でしたが、大阪公演前日に訪れた広島平和記念資料館は彼に大きな衝撃をあたえたようです。広島行の新幹線の車中では旅行気分で楽しそうな表情でしたが、資料館に入場してからは一変しました。予想を遥かに超えた核兵器の恐ろしさに心打ちひしがれて、大阪に戻るまで誰とも口ききたくないというほどでした。自分の国が犯した過ちを自分の責任かのように受け止める… その真摯な人柄は「スプリングスティーンは本当に誠実な男である。この誠実さを是非とも理解して欲しい」と言っていたジョン・ランドーの言葉通りのものでした。

一期一会を大事にする男、初めての地で、初めてのファンと…


初めての地で、初めてのファンと出会う… スプリングスティーンはこの一期一会をとても大事しました。ですが、寄付の申し出には驚かされました。彼が言うには、「自分がこの地にきたという、ひとつの証を残したい」ということでした。条件は、「確実にこのお金が不幸な人々を助けることに使われるところ。そして、できるだけ小型の組織を探してほしい」ということでした。そこで、新聞社に協力してもらい「交通遺児母の会」への寄付が決まりました。マネージャーからは、「発表してもいいけど、このことは自分たちが日本を離れてからにしてくれ」と言われ、後日、組織からの感謝状と子供達からの手紙をアメリカへ送付しています。

さらに、日本ツアーの最終日にも感動的なシーンがありました。大阪城ホールでの二日間、最前列で熱い声援を送っていた二人の少年にビッグプレゼントがあったのです。彼らはラストの曲を演奏し終わると、楽屋に戻らずそのまま車に直行するのが通例です。ですがスプリングスティーンは、出口に向かう廊下に少年たちを待たせ、自分が使ったハーモニカとピックを直接手渡します。彼等も感動のあまりスプリングスティーンに抱き付いて離れようとはしません。こちらも思わず、嬉しくてもらい泣きしました。

ホテルに戻ってから彼らはこの夜、バンドメンバーだけで日本公演の大成功を祝って “祝賀会” を行っています。メンバーには夫人同伴で来日している人もいましたが、この夜だけは男たちだけ。共に戦ってきた同士達だけが、一緒に静かに食事をとっていたのが印象的でした。

ジョン・ランドーの質問、日本はなんでもっとアルバムが売れないんだ?


ある日、ジョン・ランドーは私にこう訊ねました。「キク、日本はなんでもっとアルバムが売れないんだ?」と。この時、『BORN IN THE U.S.A.』は、既にハーフミリオン近くを売っていましたが本国で1,000万枚を越えている彼にしてみれば不満だったはずです。私はこう返事をしました。「今回初めて来てくれてありがとう。でも、たった8万人しか観れてないのです。アメリカでは、このツアーだけでも250万人以上が観てるというのに。ツアーの度に来てくれないと、彼の本当の姿を日本に紹介することはできません」

ただ同時に、私はスプリングスティーンやツアーメンバーたちに、何度かこう言ったことを思い出します。「君たちが日本で公演やってくれたことは、日本の音楽の歴史を変えた。それほど新鮮で衝撃的なものだった。やっと観られたのである。やっとその姿を知ることができたのである」と。


※2019年4月23日に掲載された記事をアップデート

2020.04.10
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カタリベ
1950年生まれ
喜久野俊和
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