12月31日

輝く!80年代のスタート、それは日本レコード大賞受難の始まり?

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ディケードのスタート「80年代は良かった」のか?


2020年は僕の人生52年間の中で間違いなく最悪の一年だった――
自らが経営する歌謡曲バー「スポットライト」は、見知らぬ同士が当時の歌を通して同志になれる “社交バー” なので、コロナ禍というやつは、そんな社交を完全否定するような惨事だ。

秋には東京と福岡1店舗ずつ閉店し、散々な状況は今も継続中だ。それでもなんとか歌謡曲による社交場を継続したいと奮闘中だがトンネルの出口は見えない…。

考えてみると物心をついてから始まるディケードのスタートはロクなことがない。90年代に入るやバブルは崩壊、00年代は世界同時テロが起き、10年代は東日本大震災が暗い影を落とし続けた。そして20年代はこのコロナだ。

そんなディケードの中で唯一光り輝いて見えるのが “80年代” の始まりだったように思う。

当時僕はまだ12歳。もちろん「社会情勢も経済活動も関係ないお年頃だったから」という事かもしれない。だけど、やっぱり色々な世代が「80年代は良かった」と言うからには、僕にとってだけでなくやっぱりそういう事なのだろうと思う。

山口百恵と1位を競い合ったもんた&ブラザーズ


そんな今から40年前、1980年という1年を振り返って嫌な事はなかったかなぁと考えてみる。全く思い浮かばない。いや忘れているだけかもしれない。

でも、ひとつだけ思い出したのだ。“嫌な事” ほどではないが “残念” に思ったこと。いや “残念” という感覚とも違う “権威への警戒、嫌悪感” を感じた思い出だ。

12歳と言えば小学校6年生になる歳。なんとなく大人社会を意識し、様々な目覚めが訪れる年齢だ。それは1980年12月31日。かの『輝く!日本レコード大賞』での出来事だ。

この年のレコード大賞は、いわずもがな八代亜紀の「雨の慕情」である。

「は?なんで?」
「ダンシング・オールナイトは?」

それが小6の少年の素朴な感想だった。

「雨の慕情」。もちろん名曲である。フジテレビ系ドラマ『北の国から』での、印象的な使われ方も思い出深い。

しかし、である。毎週のように『ザ・ベストテン』を食い入るように観ていた少年の目はごまかせない。

演歌が強い有線ランキングでもダンシング・オールナイトは抜群に強かったはずだ。引退を間近に控えた山口百恵の「ロックンロール・ウィドウ」と熾烈な1位争いを見て、子供ながらに「あー、時代が変わりよるなあ」と思ったものだ。松田聖子の登場よりむしろ僕にとっては、この2曲の戦いの方が新しい時代の幕開けを感じさせてくれたものである。

データで見る「ダンシング・オールナイト」と「雨の慕情」


ザ・ベストテンにおける実際のランキングデータを紐解いてみる。

■ ダンシング・オールナイト
6月12日、8位で初登場。その後、6月26日から2週間1位。7月10日から2週間「ロックンロール・ウィドウ」に1位を明け渡すも、7月24日から5週間に渡って1位返り咲き。通算、17週間(4か月以上)に渡ってベストテン内にランクインしている。

■ 雨の慕情
7月17日、7位で初登場。最高位6位でわずか4週間ランクインしたのみである。

もちろん、演歌によくある11位から20位内に年中入り続けていたのかもしれない。そこで、オリコンデータブックを見返してみる。

■ ダンシング・オールナイト
売上枚数:161.7万枚

■ 雨の慕情 
売上枚数:56.8万枚

である。どうなんでしょう? 当時はそんなデータを知らない子供の目にも明らかであった。

レコード大賞は “正しい物差し”だった?


今思えば、レコード大賞が単なる売上枚数や人気投票的大賞の決め方をしていないというのも分かるし、大人の事情もあるのだろう。

1977年:勝手にしやがれ / 沢田研二
1978年:UFO / ピンク・レディー
1979年:魅せられて / ジュディ・オング

いずれも、小学生の僕から見ても納得の大賞であり、レコード大賞とは “正しい物差し” であると思っていた。

「ダンシング・オールナイトは?」

大袈裟に言えば、その大晦日から僕の社会と大人に対しての不信感、権威に対する嫌悪感が始まったのである。阿久悠という人に「なんかちょっと違う側にいる人」と思うようになったのもこれがきっかけだったような気がする。

重ねて言うが、「雨の慕情」という名曲をけなしているのではない。レコード大賞という権威への不信感と不透明感… という少年期の思い出話である。

掛からない歯止め、10年ちょっとで1/3以下の視聴率…


この後、レコード大賞に対するノミネート辞退や、翌1981年に設けられた「ゴールデン・アイドル賞」なる本戦除外のよく分からない賞が新設されたりして、その不信感は増大。その後しばらくして僕もレコード大賞からは卒業してしまった。

そんな僕の卒業とリンクするように、80年代に入りレコード大賞は視聴率凋落の一途を辿る。

1977年― 50.8%(歴代最高)
1978年― 42.9%
1979年― 43.3%
1980年― 34.3%
1981年― 35.3%
1982年― 31.3%
1983年― 32.7%
1984年― 30.4%
1985年― 31.4%
1986年― 29.8%
1987年― 29.4%
1988年― 21.7%
1989年― 14.0%

わずか10年ちょっとで1/3以下の視聴率まで落ちてしまった。残念ながらその後現在に至るまで20%を超える事はないまま続いている。

明るく輝ける80年代の始まりは、レコード大賞がちっとも「輝く!」ではなくなる凋落の始まりだった訳だが、僕にとって「輝く!」だった、1979年以前のレコード大賞の映像を改めて見直すと、このコロナ禍中という事もあり本当に涙が出てくるほどいとおしい “お祭り感” が今でも強烈に漂う。

アフターコロナの世界において、世代関係なく国民全員が固唾を飲んで注目し、歓喜に包まれる祭りは存在するのだろうか?

オリンピックいかに?
万博いかに?

―― そんな事を考える2020年、年の瀬である。



2021.01.01
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カタリベ
1968年生まれ
安東暢昭
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