CMからヒットソングが生まれた時代
そのCMはよく覚えている。
三洋電機のカラーテレビのCMだ。シルクロードを思わせる砂漠で、全身をイスラムの黒装束(ヒジャブ)で覆った女性が頭に壺を乗せ、一人歩いている。そこへ雄叫びを上げながら近づいてくる白馬の馬車。鞭を振る男の顔が上下に揺れる。バックには民族楽器のダルシマーの音色も美しい、オリエンタルムード漂う曲――。
あなたにとって私 ただの通りすがり
ちょっとふり向いてみただけの 異邦人
最後にテレビの商品カットが入らなければ、この曲のプロモーションビデオかと思ってしまう。それくらい曲と映像がマッチしている。時に1979年秋―― まだMTVも『ベストヒットUSA』も存在しない時代の話である。
思えば、当時はCMからヒットソングが生まれるケースが多かった。その曲もリリースから間もなく大量のCM投下で人気に火が着き、瞬く間にヒットチャートを駆け上がった。
10月1日 リリース
10月14日 三洋電機カラーテレビCM開始
11月12日 オリコン初登場55位
11月19日 オリコン25位
11月26日 オリコン9位
12月3日 オリコン2位
12月10日 オリコン1位
三洋電機のCMソング、久保田早紀「異邦人」
俗に、“チャートとは上がるものである” なる言葉がある。かつてヒットソングが毎週のように生まれた時代、レコードはリリース直後のチャートは低く、ラジオや有線で火がついて徐々に順位を上げるものだった。
しかし、いつからかオリコン初登場=最高位に。そうなるとチャートは下がるしかない。極端な話、初登場1位の曲を除いて2位から10位が全てランクダウン。そんなチャートは楽しくない。気がつけば音楽市場からヒットソングが消えていた。
閑話休題。そう、発売から2ヶ月が過ぎた1979年12月10日―― 今から41年前の今日、そのCMソングは晴れてオリコン1位に輝いた。
はい、もうお分かりですね。曲のタイトルは「異邦人-シルクロードのテーマ-」、歌うは久保田早紀。少々前置きが長くなったが、今回はそのオリエンタルなムードで一世を風靡した、かの名曲の話である。
久保田早紀――。現在は本名の「久米小百合」名義で主にキリスト教音楽家として活動されているが、このコラムでは当時の名前で通させてもらう。
デビューのキッカケは「ミスセブンティーン コンテスト」
「異邦人」がリリースされた時、久保田早紀サンは短大を卒業したばかりの21歳だった。忘れもしない、初めて彼女がテレビに出演した『夜のヒットスタジオ』を観て、僕ら10代男子は一瞬でその美貌の虜になった。失礼ながら、アイドルと思った。当時は、80年代に訪れるアイドル黄金時代の夜明け前。アイドル不在で、あの竹内まりやサンもアイドルと間違われた時代である。
実際、久保田サンのデビューのキッカケは、前年の1978年、短大在学中にエントリーしたアイドルの登竜門『ミスセブンティーン コンテスト』(主催:集英社・CBSソニー)だった。ちなみに、同じ年に同コンテストに応募してデビューのキッカケを掴んだのが、あの松田聖子である。
とはいえ、久保田早紀サンが同コンテストに応募したのは勘違いからだった。なんと彼女は、ポプコン(ヤマハ ポピュラーソング コンテスト)のようなシンガーソングライターの登竜門と思っていたのだ。ところが―― 送った自作のデモテープが運よくCBSソニー(当時)の金子文枝プロデューサーの目に止まる。そして、デビューへ向けた二人三脚の曲作りが始まった。
久保田早紀のルーツは八王子、それがなぜエキゾチックに?
当時、久保田サンは共立女子短期大学の2年生。自宅のある八王子から毎日、中央線で都心まで通学していた。そんなある日、車窓からボンヤリと外を眺めていたら、武蔵野の空き地で子供たちが空を見上げ、手を広げる光景が目に入った。
子供たちが空に向かい 両手をひろげ
鳥や雲や夢までも つかもうとしている
「異邦人」の歌いだしの2行は、その時に頭に浮かんだものだという。この時点でまだ曲は付いてない。なんと同曲は “詞先” だったのだ。
元々、久保田早紀サンは、自身が慕うユーミンのようなポップミュージックを得意としていた。歌詞の世界観も、初期のユーミンソングが出身地の八王子をベースにしていたように、彼女の書く詞も生活エリアである八王子を起点とした中央線の風情が感じられた。
それから間もなく、先の詞に曲を付けた「白い朝」(仮題)が完成する。しかし、プロデューサーの金子文枝サンは一聴して「このままではデビュー曲としてのインパクトに欠ける」と判断する。ただ、メロディはどことなく異国情緒が感じられた。彼女に理由を聞くと、久保田サンの父親が単身赴任でイランに駐在しており(なんと、彼女のお父様はソニーの海外駐在員だった)、時おり送られてくる中東の音楽テープを普段からよく聴いているという。
これだ!―― 折しも、時代は女性の海外旅行がブームになり始め、音楽の世界でも庄野真代の「飛んでイスタンブール」やゴダイゴの「ガンダーラ」、ジュディ・オングの「魅せられて」など、異国情緒なものが増えていた。そこで金子Pは、ポルトガルの民族歌謡の “ファド” をコンセプトに、久保田サンには歌詞の修正を命じる一方、アレンジャーの萩田光雄サンにはエキゾチックな編曲を依頼する。
CMのテーマはシルクロード、時代の波に乗った「異邦人」
市場へ行く人の波に 身体を預け
石だたみの街角を ゆらゆらとさまよう
俗に、「ヒット曲は時代が作る」と言われる。およそ1年がかり(!)で修正を施された「白い朝」の完成がようやく見えたその時、三洋電機の新しいカラーテレビのCMが企画される。同社の宣伝担当は三洋一の名物男の亀山太一サン。ちなみに創業者の井植歳男氏の甥っ子で、あの名作ドラマ『私は貝になりたい』(TBS)を一社提供した傑物である。彼が電通と協議して決めた新CMのテーマが「シルクロード」であった。
CMソングはコンペ方式で決められた。電通側が提案したのが井上陽水、大橋純子、久保田早紀の3人。久保田サンのみデビュー前の無名の新人である。普通なら不利な状況だが、この時、久保田サンの推薦人に付いたのが、山口百恵の数々の楽曲や名曲「魅せられて」を世に送り出したCBSソニー(当時)のスタープロデューサーの酒井政利サン。亀山サンは酒井Pの提案に乗り、久保田サンで行くと決定する。
さらに楽曲候補は「白い朝」ともう1つ、「絹の道」というドンピシャな曲も提案されるが、亀山サンは一聴して「白い朝」を気に入り、さらに1番の歌詞の最後の「ちょっと振り向いてみただけの 異邦人」をキャンペーン・ワーズに指定する。それを受け、酒井Pは同曲を「異邦人」に改題する。この辺りの怒涛の展開は、まさに同曲が時代の波に乗った様相を思わせる。もはや久保田早紀サン本人や担当プロデューサーの金子文枝サンの付け入る隙がない――。
驚くことに、三洋電機のカラーテレビの新CMは、100%「異邦人」の曲のイメージで作られた。前代未聞である。ロケ地はパキスタン。砂漠に撮影機材を持ち込み、実際に現地の女性を使って撮影された。まさにそれは同曲のプロモーションビデオそのものだった。
運命を背負って生まれた歌、中央線は「絹の道」なり
1979年10月14日、新CMの放映が始まると、瞬く間に「異邦人」は街に氾濫した。同年12月13日には、『ザ・ベストテン』(TBS)の5位に初登場。そして、2週後の同年最後の放送で念願の1位になると、年を挟んで4週連続で1位を続け、80年代最初のヒットソングとなった。
楽曲の良さはもちろん、注目されたのは久保田サンの美貌である。憂いのある表情もいいが、僕が個人的に好きなのは、サビでメジャーに転調するところ。この時の久保田サンのパッと明るくなる表情がいい。
空と大地が ふれ合う彼方
過去からの旅人を 呼んでる道
八王子から都心へ向かう中央線の車窓から生まれた歌が、あれよあれよとシルクロードを象徴する時代のヒットナンバーに――。その状況に一番戸惑ったのは、当の久保田早紀サン本人だろう。
だが、1つ面白い話がある。かつて八王子は養蚕業が盛んで、江戸時代後期に横浜港が開港すると、両市を結ぶ街道は「絹の道」と呼ばれた。明治22年に甲武鉄道(現・中央線)が開通すると、今度は同線が「絹の道」となった。
あの日、中央線で生まれた歌は、初めからシルクロードの名曲になる運命を背負っていたのである。
※2017年12月10日、2018年12月10日に掲載された記事をアップデート
2020.12.10