80年代に入るやいなや、世界的に起こった60'sリメイクブーム
今回は、僕にとっての80sが、60年代すでに日本のポップスにビートルズなどのビートポップスのセンスを取り入れていた先駆者の人たちとの出会いでもあったというお話を!!
80sに入るやいなや、世界的に起こった、まさかの60sリメイクブーム。成熟に向かっていたポップスが再び初期衝動に満たされ始めた頃、僕は佐野元春君と出会い、そして沢田研二さんのアルバム『G.S.I LOVE YOU』をいきなり全曲アレンジさせてもらうというチャンスを得た。
ある日突然かかってきたジュリーの編曲依頼の電話に心躍らせて出かけた打ち合わせのお店に入ると、なんとそこに、その時沢田さんのプロデューサーをなさっていた加瀬邦彦さんが!!
その時はもうほんと心臓が飛び出しそうになったよ。なぜなら加瀬さんは、僕が60年代の欧米のビートポップグループに夢中になってた頃に、洋楽的なセンスの曲を書くことのできる数少ない日本のミュージシャンの一人としてずっとリスペクトしていた人だったからだ。
沢田研二のプロデューサー、加瀬邦彦との出会い
初めて加瀬さんの存在を意識したのは、まだ僕が中学生の頃。彼がザ・ワイルドワンズを結成する前にまだ寺内タケシ&ブルージーンズのメンバーだったとき。いつも好きで観ていた『ザ・ヒットパレード』という音楽番組で、いつもはエレキインストが売りのブルージーンズが珍しく歌物の、しかもオリジナル曲を演奏したのだ。
「ウチの加瀬がいい曲書いたんでね」
と寺内さんの紹介で始まった曲が「ユア・ベイビー」!!
「おお、こんなマージービートっぽい曲を書く人が日本にもいたんだ!!」
すごく印象的だったよ。その日からザ・スパイダーズの “かまやつひろし” さんとともに、“加瀬邦彦” さんの名が僕の心のメモ帳に書き込まれた。
ワイルドワンズが「想い出の渚」でデビューした時も、僕には、あの「ユア・ベイビー」の人だ!やっぱり!! と注目してるうちに、どんどんヒットを出してその才能ぶりを発揮。解散後も、沢田研二さんの「TOKIO」をはじめ数々のヒット曲を出されて、あっというまに日本を代表するポップス作曲家に!!
コンセプトは「グループ・サウンドのニューウェイブ的リメイク」
そんな僕のティーンエイジャーの頃の憧れのポップスの先駆者のひとりと仕事ができるなんてれしくてしょうがなかったし、しかも話せばパブロックやマージービートやフォークロックの話題に花が咲いてまさに夢のようではあった。けれど、加瀬さんと会った時、僕はもうただのファンじゃなかったから、とにかく加瀬さんの提示した「グループ・サウンドのニューウェイブ的リメイク」という特務をプロとして遂行するべく、それこそ全身全霊、持ってたノウハウをすべてこめての体当たりで取り組んだよ。
だからだろうか、このアルバムの制作が終わったあと、加瀬さんは僕のアレンジを気に入ってくださったみたいで、加瀬さんが曲を書きプロデュースされる、ひかる一平君のアルバムやビートたけしさんのシングル曲の編曲も任せてくださったのだ。そう、これまでメジャーの世界に縁のなかった僕に、さらにもっと道を開いてくださった最初の一人が加瀬邦彦さんなのである。
今思えば加瀬さんは僕と同じギタリストであり、バンドマンであり、作曲家であり、プロデューサーでもある。勝手な想像だけど、当時僕も感じてたように、加瀬さんも僕にどこか共通点を感じてくださってたのではないかと思う。
いつまでも高校生のような初期衝動、加瀬邦彦のロックスピリット!
加瀬さんとの仕事のなかでひとつ忘れられないことがある。それはひかる一平君の「青空オンリー・ユー」のレコーディングの時。加瀬さんから「この曲をロックパイルみたいなストレートなパブロックで行こうよ」とのうれしいお願い。
銀次:「え?じゃあ、弦とかブラスは?」
加瀬:「いやいや、いらないよ、ロックパイルみたいなコンボ・スタイルで行こうよ!!」
その気になってアレンジして行ったら、アイドルらしく一平君の事務所からやっぱり弦をとのお願いがあり、結局入れることになったのだけど、長く業界にいる大作曲家なのに、いつまでも高校生のような初期衝動なこの加瀬さんのロックスピリットがうれしかったね。
日本のポップス最前線でヒットを生み続けてきた秘密とは?
そういえばジュリーの「ストリッパー」の編曲を考えてる時も、「キーボードも入れましょうか?」と提案したら「いや、ネオロカビリーなんだからいらないよ、ギターサウンドで!!」と、ばしっと一声。
自分がいいと思ったものをやるときは、何事も中途半端じゃなく振り切っていかなくちゃ。音楽が大好きでもマニアックにならず、前をしっかり向いた目線でどうやって作っていくのかを、大先輩の加瀬さんに会って学び刺激を受けたね。
欧米のポップスやロック音楽を高校生のように大好きでこよなく愛しているのに、きちんと日本のポップス最前線でヒットを生み続けてきた秘密はここにあったんだ。
その考え方が、その後の佐野元春の作品のプロデュースや自分の作品制作に大きな影響を与えてくれたことはもう間違いない。
残念ながら加瀬さんはもう亡くなってしまったけれど、加瀬さんとの出会いで、僕は確実に彼から、60sから80sへのバトンを確かに受けとった気がしています。
加瀬さん、どうもありがとうございました!!
2020.01.28