12月29日

【スティーヴ・ウィンウッド】と【もんたよしのり】の音楽、その最大の違いは?

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スティーブ・ウィンウッドのセカンドアルバム「アーク・オブ・ア・ダイヴァー 」発売日
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Steve Winwood / Arc of a Diver

もんたよしのりも1980年デビューだった


10月23日、もんたよしのり氏の訃報が流れました(10月18日に逝去)。久々に耳にしたその名は、言うまでもなく、1980年にリリースされたデビュー曲「ダンシング・オールナイト」に直結しています。あまり好きじゃなかったけど、とにかくメガヒットだったので、記憶にはしっかり残り、今でも脳内で再生できます。

好きじゃなかった理由は、作品自体が個人的に好みじゃなかったのに加えて、ロックだのソウルだの言いながら、メロディはムード歌謡とちっとも変わらなかったこと。ムード歌謡が嫌いなんじゃなくて、“外面 (そとづら)” と中味が違うのがイヤだったのです。そんなパターンが多く、そういうのが売れる日本の音楽市場にも不満でした。

でも御本人は、デビューしてから10年近くも芽が出ず、最後のチャンスのつもりで出した曲です。なりふり構っていられない背水の陣、ムード歌謡風メロなら売れるだろうなんて安易な考えはなかったでしょうし、またそれで売れれば苦労はしません。あの作品にはやはり強いパワーがありました。

そのパワーは、否定的だった私のような人間の脳内にも、しっかりと痕跡を残すほど、そして、1曲だけでもんた氏の名前を音楽史に刻みこんでしまうほどの強さでした。



なぜか地味なスティーヴ・ウィンウッド


スティーヴ・ウィンウッドという人は、出身地である英国や、あるいは米国での存在感はよく分からないのですが、日本においては、キャリアのわりに地味な印象のアーティストだと思います。

1948年5月12日生まれ。幼少期から音楽的才能を発揮し、キーボードをメインにしつつ、ギター、ベース、ドラムなどもこなし、歌はうまいし声もよい。10代前半にして、マディ・ウォーターズやチャック・ベリーなど、米国アーティストの英国ツアーをサポートして、ハモンドオルガンやギターを演奏していたそうです。

15歳で、スペンサー・デイヴィス・グループ(The Spencer Davis Group)に加入、ボーカル&キーボード&ギターとして「Keep on Running」、「I’m a Man」などのヒットを飛ばし、一躍スターダムに。1967年に脱退して、トラフィック(Traffic)を結成。69年にはエリック・クラプトンらとブラインド・フェイス(Blind Faith)を結成し、名盤『Blind Faith(スーパー・ジャイアンツ)』を残した後、再びトラフィック。77年からはソロアーティストとして、ヒット作を輩出しつつ、トラフィックの再結成、クラプトンとのコラボ… と、実に華々しいキャリアをウィンウッドは歩んできました。

だけど日本では、たとえば、彼の盟友であるエリック・クラプトンや、よく似た音楽的傾向を持つフィル・コリンズ、「ブルー・アイド・ソウル」というカテゴリーで言えばホール&オーツ…… らに比べると、どうも今ひとつ印象が薄いですよね。

1977年のソロ1作目『Steve Winwood』は、パンクブームに阻まれて、ヒットとまではいきませんでしたが、1980年の年末にリリースした2作目『Arc of a Diver』は全英12位、全米3位、全世界で700万枚を売り上げる大ヒット。リードシングルの「ユー・シー・ア・チャンス(While You See a Chance)」が、英国では45位ながら米国では7位とブレイクして、アルバムの拡売を牽引したのでした。



ちなみに同じ1980年発売のクイーン(Queen)のアルバム『The Game』は世界で約600万枚くらいで、しかも米国では彼らの中で最も売上が大きかった作品です。ウィンウッドはそれすらも上回る、申し分のない実績の持ち主なのに、なぜ、かくも印象が薄いのか。だいたい『Arc of a Diver』=「飛込競技者の弧形」という分かりにくい英語なのに、まともな邦題もついていないのは、当時の常識からすると、日本で売る気がなかったということです。そしてこれだけでなく、ウィンウッドの作品にはほとんど邦題がつけられていないのです。

濃淡も音楽の価値基準


ところでこのアルバムは、ウィンウッドが自らプロデュースし、作詞はウィル・ジェニング(Will Jennings)という人ですが、作曲はすべて彼、自宅のスタジオで、すべての楽器を演奏し、エンジニアも務めています。作詞以外すべて自分でやってしまうというスタイルは “大橋トリオ” を思い起こさせますが、そう言えば、音楽もちょっと似ているかもしれない。だけど、1980年という時代に、ロックやR&Bのような音楽を、自分一人だけで多重録音してつくってしまうなんて、『McCartney Ⅱ』(1980)のポール・マッカートニーのようにそれがコンセプトというのでもない限り、まず考えもしないことだったんじゃないでしょうか。親しいミュージシャンは周りに何人もいたでしょうし…。

ここからは私の得意な独断と偏見ですが、要するに彼は優等生過ぎたのではないでしょうか? 子供の頃から発現した音楽的才能。ただし、天才にありがちな狂気とか破綻とは無縁の秀才タイプ、何でもそつなくこなし、どこといって欠点がない。バンドに居る時は自分のやるべきことをやり、ソロアルバムでは他人を頼る必要性を感じない。それで全米3位がとれるんだから、もう自信しかないですよね。

たしかに、リードシングルやタイトル曲は、充分キャッチーでありながら、ちゃんと品(ひん)があるし、アルバム全体としても、個人的には退屈な曲もあるけれど、隅々まできちんとつくられていると感じます。

だけど、いや、だから、なんだか面白みにかけるんです。心が鷲づかみにされるようなエグさがない。たぶんそういうものは、何かしら、狂気とか悲しみとか絶望とか、人としての限界に触れないと出てこないような気がします。ウィンウッドのように順風満帆な(いやホントはいろいろあるのかもしれませんけど…)人生とは縁がなさそうに思えます。

作品としては、「ダンシング・オールナイト」よりも、『Arc of a Diver』のリードシングル「While You See a Chance」のほうが好きです。でも、「ダンシング〜」のほうが遥かに強く、身体には残っています。そして、「Layla(いとしのレイラ)」があるからクラプトンのほうが、「Easy Lover」があるからフィル・コリンズのほうが、「Private Eyes」があるからホール&オーツのほうが、日本人には、日本人の私には、ウィンウッドより存在感が大きいのです。

これも、音楽の “意味” を考えさせられるひとつのテーマです。

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2023.11.08
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カタリベ
1954年生まれ
ふくおかとも彦
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