曲そのものは15分ほどで仕上がった「少年時代」
作曲をするに当たって常に心掛けていることはたったひとつだけで、作品に普遍性を持たせるということである。これは私の作曲活動を初期から支えてくれた、松本隆、大瀧詠一の両氏からの影響が大きいと思うが、普遍性のあるものさえ作っておけば、当初は認められなくても、いつか必ず評価を得られるということである。
「少年時代」を共作した井上陽水さんも、価値を同じくするアーティストで、先ずは “売上げ” よりも作品の持つ “普遍性” を最優先するソングライターである。たとえば、どんな大型タイアップが付いた楽曲依頼でも、自分の本意でない仕事は受けない。ここは究めて潔く、自分も深く学んだ点である。
陽水さんに関してよく聞かれることの一番は共作に関してのことだ。具体的な共同作業は、セッションの冒頭で陽水さんから渡されるグラフで描かれたイメージ構成案だったり、ときには言葉の断片が書かれたメモから始まっていく。それを手がかりに、ピアノでコード進行を固めていって、そこに陽水さんの自在なメロディーと言葉が乗ってくる。そうした作業を積み重ねていって一つの作品となっていくわけだが、それが30分で完成する場合もあれば5年かかってもまとまらない場合もある。
「少年時代」は詞を別とすれば、曲そのものは15分ほどで仕上がった作品だと記憶している。このときは陽水さんから、
「背筋が伸びたような作品を作りたいですね」
―― というイメージの提示があって、自分としては即座に “教会音楽” を思い浮かべ、ピアノを弾き始めたのを覚えている。
共作の緩和剤となったレノン&マッカートニーの普遍的な作品の数々
“共作” という作業は時には “競作” という作家同士のレースになってしまうこともある。お互いの持つ全ての音楽的知性や感性を一曲の中に一気に詰め込むというエゴのぶつかり合いでもあり、共作という作業は決して楽しいことばかりではない。音楽的に普遍性を求めるがあまり、敢えて文法通りの作風にするか、普遍性にはある種の革新性も必用だとするか、ここは大きく考えの分かれる点である。
そんなときの緩和剤となってくれるのが、お互いがこよなく愛する作曲家コンビであるレノン&マッカートニーの普遍的な作品の数々である。
方向性を見失って手詰まりになった時には、10代の頃から親しんだビートルズの作品を、陽水さんがギター、自分がピアノで一緒に歌い演奏する。ふたりとも作曲の基本的技法が伝統と革新性の両方を持ち合わせた、“レノン&マッカトニー型” であるということだろう。結果的に目指す着地点は極めて普遍性の高いものになる。
レノン&マッカートニー型といっても、ビートルズのパロディーのような作品を作ろうと考えているわけではない。小説や映画の世界で例えるとスピンオフともいえる、実在しないレノン&マッカートニー作品から派生する “二次創作” ともいえる作業を陽水さんと私は、“レノン&マッカトニーごっこ遊び” としてお互いに楽しんでいるということである。
セッションはすべて生の楽器でレコーディングされた「少年時代」
それでは作品に普遍性を持たせるにはどうしたらよいかということであるが、簡単に言ってしまえば、流行を追わないことである。流行のリズムも、サウンドも、時代の移り変わりと共に必ず廃れていくものであるし、ブームが去ってから聴き直してみるとひとつの文化ではなく、一過性の風俗にしか聴こえないこともある。
『少年時代』のレコーディングに際し、当時はアナログシンセサイザー全盛の時代であったが、セッションはすべて生の楽器でレコーディングされた。生楽器の音は時代の流れとは関係なく決して風化しないし、結果、普遍的なサウンドを作ることが可能である。
大滝さんの傑作アルバム『A LONG VACATION』が今も変わらず愛聴されているのも同じ理由で、シンセサイザーは部分的に効果音として使われているだけで、あとは全て生楽器でレコーディングされている。これがあの普遍的なサウンドを生み出した大きな要因である。ただ、ここで誤解してほしくないのは、単に流行を追うな、ということではなく、作品を創作する目的は何か? ということがポイントなのである。
ビジネスとして成功することを最優先とするならば、流行歌は一過性のものであると割り切って、積極的に流行を取り入れるべきだと思うし、そういう中からも普遍的な作品が生まれないとも限らない。ただ自分にとっては、ヒットチャートを賑わすショウビズ的ダイナミズムよりも、誰もが親しみを感じる “予定調和” 的安心感と、リスナーを心地よく裏切る真逆の “予測誤差感” をバランスよく持ち合わせた楽曲が普遍性のある作品であり、それが最も重要なのだ。
たとえばビートルズの「Hey Jude」。誰もが一度聴いたら忘れられないシンプルで分かりやすい導入部から、後半の永遠に続くかと思うようなエキセントリックな合唱部分。全く相反するふたつの展開がこの作品では奇跡的に共存している。そしてそんな作品を創作することが作品を生み出す上で最も大きなモチベーションだと思える。
作品は公表した瞬間から作家の手を離れ一人歩きを始める。しかし自分の作品が永く歌い継がれることほど幸せなことはないし、その作品が歌われ続ける限り永遠の命を授かったような気になることも確かだ。作品における普遍性が何よりも大事であることの後押しをしてくれた、松本隆さん、大滝詠一さん、そして井上陽水さんには今更ながら感謝でしかない。
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2023.08.25