2004年 8月21日

The Good-Bye 曾我泰久インタビュー ③ いつだってジャニーさんに褒められたい!

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『The Good-Bye 曾我泰久インタビュー ② 野村義男などバンドメンバーの素顔は?』からのつづき

ジャニーさんに褒められたい。その気持ちで頑張ってきた


― これまでのお話を聞いていると、ジャニーさんは、絶対売れなくてはいけない、そのためにはどうやって売り出すのか? を常に考えている方だと思っていたのですが、それぞれの性格をちゃんと見極めてバンドメンバーにするなど、そういう部分もプロデューサーとしてすごい人ですね。

曾我:ジャニーさんは、全体が見えていて、ヨッちゃんがデビューするなら、子供の頃から芸能界にいて責任感が強い僕に任せておけば、何とかなるだろうという思いもあったと思います。
最終的には僕が追い込まれて、「年間3本ドラマを入れてくれたら義男とやるよ」ってジャニーさんに言ったんです。そしたら、「分かった。3本入れるから」と。それで、ジャニーさんはやたらと人を褒めるんですよ。僕はジャニーさんに褒められて、褒められて育ってきた人間なので。だから、ジャニーさんに褒められたいという気持ちがずっとあって頑張ってこれたと思います。

― ドラマ3本のお話を聞くと、役者としてやっていく気持ちも強かったのですね。

曾我:強かったですね。当時、リトル・ギャングでデビューして、ジャニーズが低迷している時、子供番組の体操のお兄さんもやりながら、楽器をやりながら、いろんなことをやってきた中で、ドラマに出た時、「この世界って素晴らしい」と思えたんですね。歌謡界とは違う新しいことをやろうというクリエイティブな面が見えたんですね。役者さんひとりひとりの役作りも曲作りとは違って、自分の人生を賭けている姿にインスパイアされて、これは素晴らしい! と思えました。それで役者っていいな、と思えました。



― 役者とミュージシャン、舞台というエンタテインメントの仕事を曾我さんは経験されているわけですよね。その中でミュージシャンという仕事をずっと続けてきた根本的な理由はありますか?

曾我:好きだからとしか言いようがないですね。好きなことを続けていられるのは幸せですが、ジャニーズにいる時は、締め切りまでに作らなくてはいけないという中でやってきました。自分ひとりになった時には、好きなことをやるために離れたわけだから、自分のペースでやりたいことをやりたい。ノルマもなければ締め切りもない。自分のやりたいことをやりたい時にやるというスタイルでソロ活動を始めて。
ソロになった最初の頃はミュージカルの仕事が非常に多くて、コンサートをやる時間がなかなか取れなくて。そのミュージカルもジャニーさんが敷いてくれたレールでした。
ある日突然レコーディングスタジオにジャニーさんがいて。普段はあまり来ないんですよ。だから「あれ、どうしたの?」って言ったら、モジモジしながら「ヤッチン、これやるから」って言いながらチラシを渡してくれたんです。そのミュージカルのチラシに僕の写真も載っていて(笑)。常に本番主義というか。ジャニーさんはいつもいきなりなんです。
それで「僕、ドラマはやるって言ったけど、ミュージカルをやるなんて言ってないじゃない」って言うと、「しょうがないじゃない。決まったんだから」と(笑)。
それは『イカれた主婦』という木の実ナナさん主演のミュージカルでした。それまで『ショーガール』という二人芝居の作品を続けてきて、初めて違うスタイルで勝負に出るという作品で僕が息子役で出ることになりました。ミュージカル界の第一人者の息子役というので僕はビビりました(笑)。
でも、それが大ヒットして、次から次へとオファーが来るようになりました。
ジャニーズ事務所を辞める時もジャニーさんに、「ヤッチン、ミュージカル頑張っていくんだよ」って送り出してもらいました。

1990年に活動休止。感じていた音楽的な到達点


― The Good Bye(以下グッバイ)は1990年に活動を休止して、その時と言うのはどういうお気持ちでした?

曾我:それこそ、25の時に『イカれた主婦』に出て、このままでいいんだろうか? と思ってしまったんですね。ミュージカルですけど、芝居の世界は自分でその空間を作っていく。ドラマは、演出家が動きを決めていきますが、ミュージカルは、動から全てを自分が作っていく。そういう世界に出会って、大人としてこの先、三十代、四十代、役者として生きていくなら、今これだけ守られている環境が果たして正解なのか? と思えてしまって。僕は11歳からジャニーズ事務所にいたので、外の世界を見たことがなかった。でもミュージカルで初めて外の世界の人たちと触れ合って、自分の足で外に一歩出てみないと、この先楽しいと思っている音楽さえも続けていけなくなるのではないかと思えて。自分が過保護に思えたんですね。それで荒波に一度出てみたいと。
バンドとしてもやり切った感があったのも確かでした。

― グッバイとしてコンスタントにアルバムを出されて、1990年は時代の節目として音楽の流れも変わっていったと思います。バンドサウンド的なものが成熟しきった時期だと思います。その時期に活動休止というのは、ある程度の達成感があったのでは?

曾我:この時期は、メンバー全員が自分のデモテープも凝るようになってきました。チャンネル数も増えてくるし。凝ったデモテープほど自分で愛着があるので、それをバンドとして表現した時、デモテープの方がいいじゃん、と思ってしまう自分もいて、バンドとしての意味があるのだろうか? となるんです。それで、今後もミュージシャンとしてやっていくなら、一度ここで止めた方がいいと思ってしまったんです。それで、メンバーに伝えました。これからみんながグッバイを続けていくなら、必ず僕の代わりを探すからと。

― それは曾我さんから始まった話だったのですね。

曾我:そうです。そしたらみんなも同じ気持ちで、音楽的にも到達点を感じていたので、ここでケジメをつけた方がいいよねと。それで僕が事務所に話を持っていきました。
グッバイの4人がこの先もミュージシャンとしてやっていくには、この事務所ではなく、それぞれの道を歩いていきたいんです、と言って。それで理解していただいて。

再始動したグッバイ、ベーシスト加賀八郎との早すぎる別れ


― それで2003年に活動を再開しますよね。

曾我:そうです。その間、僕のソロで義男には詞を書いてもらって。ある時、レコーディングでフルアコのギターが必要だったので、それを義男に借りたんです。で、返すのに原宿の駅の近くで待ち合わせして、車を2台停めてギター返したら、「あのさぁ、グッバイでコンサートやらない?」っていきなりあいつが言い出して。「解散コンサートやりたいんだよね」と。でも解散って出来ないよ。活動休止しているわけだし。生々しいですが、グッバイという名前は事務所が持っているものだから、僕らがどうのこうの出来るわけではない。
もし、コンサートをやるなら、事務所に話をしに行って、グッバイという形でやらせてもらうように許可を取ってくるからと。それでジャニーさん、メリーさんからOKをもらって。メリーさんは「あの子たちだったらいいから」と言ってくれて。
それで、一日限りで「再会」というタイトルのコンサートをやりました。その時は、グッバイにいろいろな思いがあったんですね。大事なものでもあるし、当時の自分たちには負けたくない。俺たちはその先を行っているから、という思いがありました。それはメンバーみんな同じだったと思います。
でも、オープニングでステージに上がった瞬間に、いろんな思いが溶けていったんですね。だから、あの時、ステージ上で演奏している4人はすごくピュアでした。
ただただ、自分たちが作ってきた音楽を楽しんでやれた。僕はそんな経験が初めてでした。
ミュージシャンとして、懐かしさだけではやりたくないし、あいつには負けたくないという思いが、それぞれあったと思うんです。でも、それがステージに上がった瞬間、すべて消えて、あの空間がすごく綺麗でした。邪念がないというか。ただただ楽しかった。
それで、その日の打ち上げで、「またやろうか?」となったんです。

ーアニバーサリーのライブを続けながら、2013年には、加賀さんがお亡くなりに…

曾我:本当に「まさか…」という思いで。病名を最初に聞いた時に、ネットで調べたら、えっ? と思って。生存の確率も低いし、信じられない思いでした。でも、本人は「今は医学も日進月歩だから、新しい薬ができるのを楽しみにしているんだ」なんて言って前向きでした。そこから、重いベースは持てないからヘフナー(ポール・マッカートニーも使っていた通称バイオリン・ベース)を欲しいと。それで義男が八つぁん(加賀八郎)のベースを売ってヘフナーを買いました。そこから毎月のように彼の家に集まって「こんなデモテープ作ったんだ」とか聴きながら、「アルバムどういう風にしようかな」なんて言って、飲みながらしゃべっていたんですね。

― 最後までバンドだったんですね。

曾我:そうですね…。

アルバムの再評価。そして2023年は結成40周年


― そして、今もコンスタントにやられていて、来年が結成40周年ですね。

曾我:八つぁんがいないというのは今でも信じられないし、新譜というのはこの前の10
枚目で、全てやり切ったという思いがあるので、グッバイとしての新しい曲は、そうそう簡単に手を出せないというか…。もうやるだけのことはやった。あれで完結と僕は捉えています。ただ40周年を楽しみにしてくださっているファンも多いので、何らかの形で、コンサートツアーはやろうと思っています。新しい音源に関しても、どういう形なら出来るのかというのも考えています。



― こないだのイベント(『祝!CD再プレス!素晴らしきThe Good-Byeの世界!』@渋谷LOFT HEAVEN)でも感じたのですが、グッバイのファンというのは、音楽についてすごく詳しいですよね。

曾我:最初の頃というのは、アイドルファンがたくさんいて、途中、『FIFTH DIMENSION』あたりで、そういう人たちが篩(ふるい)にかけられ、音楽好きな人たちが残ったんです。今いるファンの人たちは、僕らが “こういう音楽が好きなんだ” ということを全て掘り下げて聴いてくれています。それに最近、グッバイのライブに何十年ぶりに来ましたという人がすごく多いんです。僕は、ジャニーズ事務所を辞めてから一切メディアに出ていません。普通ならメディアに出なくなると「あの人どうしているんだろ?」となりますよね。それでもネットで調べて、「まだライブやっているんだ」ということで観に来てくれる。嬉しいですよね。

― これから、グッバイの音楽の若い人に響かせたいという気持ちはありますか?

曾我:全くないです。逆に僕が若い人たちが聴くような音楽を聴いているかといえば、聴いてないですから。ヒット曲を狙う職業作家は、常に勉強をしていないとダメだと思うんです。たまたまグッバイの新譜を作る前に鷺巣(詩郎)さんに会った時、「ヤッチン、今の音楽なんか聴かなくていいよ。今の音楽を聴く時間があるのだったら、まだ聴いていない60年代、70年代の音楽、宝物が山ほどあるから。それを勉強した方がいいよ」と言われました。萩原健太さんからは、「ヤッチンはいいなー。まだまだ宝物があって」なんて言われます。それは裏を返すと勉強をしてないだろ、ということなんですけど(笑)。

― 最近はどんな音楽を聴いていますか?

曾我:ジェリー・フィッシュのメンバーの人が作ったザ・リカリッシュ・カルテットですね。あとは(山下)達郎さんの新譜かな。

― 基本的にポップなものがお好きなんですね。ELOとかも。それがグッバイに反映されていますよね。

曾我:当時のアルバムは声も高いし、テンポも速いし、恥ずかしい部分もいっぱいあるんですけど…。その時代をしっかり記録したものなので。

― これからグッバイを聴く人に聴いて欲しいアルバムはありますか?

曾我:どうですかね。1枚、1枚歴史があるというか、ストーリーがあるので、1枚目から聴いてもらいたいですね。変わっていく様子が分かりますから。これだけ下手っぴだったのが、徐々に上手くなって、最後には、ちゃんとコンセプトのあるアルバムを作っていくという部分に着地できているので。そして、その落とし前として10枚目をキチッと作れているので。
グッバイは解散することはないので、愛してくれるファンもいるし、メンバーはめちゃめちゃ仲が良いし。だから、やれる時にはやりたいなと思っています。

― 来年7月に、中野サンプラザがなくなってしまいますよね。最後にはグッバイにやって欲しいです。

曾我:本当に! やりたいですね。グッバイでも何度もステージに立ったし、グッバイでの初ミュージカルがサンプラザでした。

― 最後にファンへのメッセージをいただけますか。

曾我:アイドル全盛、バンドブーム全盛の中でどっちつかずのグッバイを見つけてくれて、ずっと変わらず応援してくれていて、「えっ? グッバイ?」って周りから言われることも多かったと思います。ジャニーズの中でもアイドルしていないし。ロックバンドの中で、ロックじゃないだろ、って言われていながら、僕らは難しい立ち位置にいたと思います。それをちゃんと変わらず、支持して応援してくれた人たちは、本当に尊いと思うんです。ありがたいなと。今は音楽好きな人たちが応援してくれていると思いますが、感謝しかないです。そして、今、30年以上経って、過去のアルバムが評価されていて、それを自分たちのことのように喜んでくれているファンの方がたくさんいることは、本当に幸せだと思います。引き続き40周年も盛り上げていきたいと思います。これからも応援よろしくお願いします。

(取材・構成 / 本田隆)


アイドル時代から長きにわたる曾我さんのキャリア。そして、その中心にあったグッバイのメンバーとしての活動。いろんな思いが交差する良いインタビューになったと思います。これだけの話を語ってくれた曾我さんには感謝しかありません。そして来年はThe Good Byeデビュー40周年。どのようなアニバーサリーになるのか今から楽しみです!

特集:The Good-Byeに夢中!

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