自動車免許取得! 80年代後半はカーステ三昧の日々
1985年… 無事高校を卒業した僕は、家族の中で初めて自動車免許を取得したことをいいことに「この家には絶対に車が必要だ!」と親に訴えかけ、懇願し、最後には「真面目にアルバイトして絶対に返済しますから…」と泣きつき、まんまと軽自動車を買ってもらったのだった。それはまだ、肌寒かった春の日の話である。
1980年代後半は、まだカセットテープ全盛の時代だった。我が愛車で聴くために僕は、TVドラマやCMのヒット曲、そして自ら発見した “今週のスポットライト” 的な曲を集めてオリジナルテープを作ったりした。もちろん『FM STATION』の付録だった鈴木英人氏のインデックスカードを利用したのは言うまでもない。
そんなカセット(ハイポジ)を、後付けしたカーステでガンガン流し、「俺ってイケてる」とかブイブイ言わせていた… それはもう恥ずかしき青春の余韻である。
新しモノ好きな僕は、SONYから発売されたDiscman(後のCDウォークマン)をいち早く購入した。働き始めた僕の給料が12万円だったのに対して、それは5万円もする代物だった。言わずもがな、我慢ならなかったのである。末っ子の悪いところだ。僕は当時作ったばかりの “丸井のカード” を恐る恐る店員さんに渡していた。
愛車に設置したDiscmanは、初代カーCDシステムゆえに、まだまだ振動に弱く音飛びが酷かったけれど、僕は最新アイテムを人に自慢できることに至上の歓びを感じていたので、そんなことは些細な問題だった。
そして、DCブランド全盛の時代。僕は同じく丸井のカードで購入した Y’s(YOHJI YAMAMOTO)の黒いシャツ(当時4万円くらいした)をジーパンに無造作に合わせ、ご満悦だった。デザインの良さなどまるでわからない… バブル景気に乗せられた若気の至りと言えよう。
1987年「Oh,ムーンライト」でメジャーデビューした永井真理子
前置きが異常な長さで申し訳ない。しかしここからが本題である。
この1985年から1990年あたりで僕が発見した “今週のスポットライト” の中には、谷村有美、種ともこ、遊佐未森などが存在していて、その中でも一番輝いていたのが永井真理子だ。
1987年7月22日リリース「Oh,ムーンライト」でメジャーデビュー。その後11月25日にリリースされたセカンドシングル「瞳・元気」は、たしかコンタクトレンズのCMだったと思う。伸びやかな声とキャッチーなメロディー… ずっと気になっていた僕は、その「瞳・元気」が収録された2枚目のスタジオアルバム『元気予報』(1988年)をCDショップで手に取った。空を見上げているような彼女のジャケット写真… それが永井真理子との出会いだった。
真っ白なTシャツとリーバイス501が基本スタイル。黒目がちな瞳が大きくてクリクリとよく動き、サラサラな髪は短いショートボブ、そこから透けて見える太い眉、ぴょんぴょんと飛び跳ねる姿… まさに “元気っ子” だ。それでいて、その小さい体のどこからそんなパワフルな声が出るのかという声量とハスキーボイス。完全にノックアウトだった。
瞳はいつも元気 瞳は今日も元気
だけど ひとりきりじゃいられない
瞳はいつも元気 瞳は今日も元気
だから投げキッスで迎えて My Kids
CMでは「瞳・元気」のサビの部分が使われていた。紛れもなく永井真理子の突き抜ける声は、最高に気持ち良く響き渡ってゆく。
このルックスと歌唱力… 僕は間違いなく永井真理子のブレイクを予感していた。
ブレイクの予兆なし… 小比類巻かほるイメージが被った?
ところが、当時デビュー間もない永井は、驚くことにブレイクする予兆すらなかったのだ。この曲はオリコンにチャートインすらしていない。それはもう何とも残念で仕方がない。初期の名曲なのに…
僕の勝手な想像だけれど、永井真理子は、そのおよそ9カ月前にリリースされた「Hold On Me」のヒットで注目を浴びた小比類巻かほると、イメージが被ったのではないだろうか――
ソウルフルなボーカルで一躍トップアーティストとして爆発的人気を得た小比類巻かほるは、プリンス、モーリス・ホワイトなどに英語で評価された数少ないアーティストである。「Hold On Me」は、ドラマ『結婚物語』(日本テレビ系)の主題歌として大ヒット、小比類巻は同1987年に行われた『第38回NHK紅白歌合戦』に見事出場を決めてみせたのだ。
ただ、僕は永井真理子派である。実に悔しい限りだけれど、僕は、永井真理子は必ず世の中に評価されると信じて疑わなかった。その時からずっと、ずっとその思いを絶やすことはなかったのだ。
永井真理子と辛島美登里、ふたりの固い絆
ここでもう一人重要な人物を紹介しておきたい。辛島美登里だ。
辛島から楽曲提供された「瞳・元気」が、ふたりの絆の始まりである。辛島は永井の5歳年上だけれど、ふたりの絆は固く、それはもう辛島が永井を追って同じ事務所へ移籍するほどだ。
辛島の歌手デビューは、永井へ楽曲提供した1987年から遅れること2年、1989年である(公式プロフィールによる)。ファンハウスの永井真理子担当だった金子文江プロデュースにより歌手活動を本格化させたのだ。
その後、アニメ『YAWARA!』の初代オープニングテーマとなった「ミラクル・ガール」がスマッシュヒットを飾り、これに続き辛島の「笑顔を探して」が同ドラマのエンディングテーマに抜擢される。
永井人気に引っ張られる形で勢いに乗った辛島は、その2か月後、TBS系ドラマ『クリスマス・イヴ』の主題歌「サイレント・イヴ」を大ヒットさせ、完全に世間へと認知された。僕は「この人いつ歌を歌うんだろう?」と、ずっと待っていたので、それはもう、もろ手を挙げて拍手したものである。
シングル「ZUTTO」がロングヒット、ついに射止めた紅白歌合戦出場!
さて話を戻そう。本流は永井真理子である。
1990年10月24日リリースされた「ZUTTO」は、当時人気絶頂だった山田邦子の冠番組『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』のエンディングテーマとして使用された。オリコン最高位は2位ながら、12週にわたりベスト10圏内にとどまるロングヒットを記録。翌1991年、『第42回NHK紅白歌合戦』に出場を果たした。
作曲は、初期の永井をサポートし続けた藤井宏一、作詞は亜伊林… 亜伊林とは、「裸足の季節」「青い珊瑚礁」など、初期の松田聖子をはじめ、アイドル歌手など幅広いアーティストをヒットに導いた三浦徳子の別名である。「ミラクル・ガール」そしてこの「ZUTTO」と、この藤井・亜伊林コンビによって、永井真理子は紅白のステージへと導かれたのだ。
ずっとずっとねエ こんな風にしてね
ずっとずっとねエ 生まれる前からね
Zutto…
このときの僕は、間違いなく永井真理子に恋をしていた。それは多くのファンがそうだったように、永井真理子は “ずっと” そのままの永井真理子でいてくれると信じていたのだ。
2017年に音楽活動を再開、いまや一児のママさんアーティスト
1992年に続いて開催された1993年の横浜スタジアムライブ。WOWOWの生中継を録画していた僕は、平静を装いつつ、本気でがっかりした。ツアーバンド、Hysteric Mamaのギタリスト廣田コージとの婚約をステージ上で発表したのだ。恥ずかしながら、アイドルの熱愛報道を素直に喜べないファンと僕は同じだった。
そして恐れていたことに、その直後からファン激減は現実となってしまったのだ(翌年のライブは半分近く空席であった)。それは廣田コージとの出会いゆえに、曲の雰囲気が変わったことが原因と言われているけれど、僕はロングヘアーにイメチェンした彼女の雰囲気が変わり、大好きだった永井真理子ではなくなった… というファン意識が積もり積もった結果、それが本当の理由だと思う。
そう、永井真理子とは、めちゃくちゃ歌の上手いアイドルだったのだ。アイドルはいつか卒業する。ボーイッシュな元気っ子は、いつしか大人の女性になっていたのだ。
―― そうして、僕の永井真理子の思い出も、ここで終わってしまった。
さて、2017年より本格的に音楽活動を再開させている永井真理子。彼女はいまも一児のママさんアーティストとして活躍を続けている。コロナ禍で思うようにライブ活動ができない厳しい状況のなか『888ライブ』を決行(8月8日8時からの配信ライブ)。さらに、10月24日に行う予定だったサモール大阪公演延期を受け、急遽、心斎橋SUNHALLを使い配信&限定人数ライブに切り替えるなど、柔軟な対応で乗り切っている。さらに11月2日にはネット通販で自身初のセルフカバーアルバム『Brand-New Door』をリリースさせる。(永井真理子オフィシャルブログより)
歳を重ねた今、僕はまた、永井真理子を聴いてみたいと思う。
何故なら、久しぶりにネットで見た同い年の永井真理子はまだまだキュートで、かわいらしく、僕は2度目の恋をしてしまったからだ。
※2018年5月22日に掲載された記事をアップデート
2020.10.24