リ・リ・リリッスン・エイティーズ ~ 80年代を聴き返す ~ Vol.4 バスルームから愛をこめて / 山下久美子 音楽制作の主導権は渡辺プロ、原盤供給システムの元祖
佐野元春の3ヶ月後にデビューした山下久美子。レコード会社は日本コロムビアで、A&Rは三野明洋さん。オリコンなどの業界情報誌では、今はどうか知りませんが、「レコードメーカーディレクター」しか載らないので、そこには三野さんの名前が出ていたのですが、実際の制作現場は、山下が所属する渡辺プロダクションの系列会社である渡辺音楽出版の社員、木﨑賢治さんが仕切っていました(※1)。三野さんは庄野真代さんや中村雅俊さんでヒットを連発していて、コロムビアのニューミュージック分野を代表する制作マンではありましたが。
レコード(CDなども含めて)には「原盤権」という概念(※2)があって、それは通常、音源制作費を負担するところが持ちます。レコード会社が原盤権を持つ場合も多いですが、渡辺プロは自分たちのお金で原盤権を持ってそれをレコード会社に供給するという方針でした。そもそもレコード会社以外のところが原盤を供給するという形は渡辺プロが始めたものです。その第1号はクレージーキャッツの「スーダラ節」、1961年のことです。金を出すからには口も出す、ということで、渡辺プロ所属アーティストの音楽制作の主導権は渡辺音楽出版がにぎっていたのです。
渡辺プロならでは? デビュー半年前のレコード会社変更
私は渡辺に1978年に入社し、山下久美子という新人に興味を持ち、自ら手を上げて木﨑先輩のアシスタントに就任していました。その頃の渡辺音楽出版には私を含めると9名も制作ディレクターがいて、渡辺プロのアーティストをそれぞれが数組ずつ担当していました。また渡辺は「サウンズ・マーケッティング・システム(SMS)」というレコード会社も1978年に立ち上げていました。
実は当初、山下久美子はSMSからリリースされる予定で、何度か会議まで行っていたのです。会社としては持てるリソースを活かして、とれる利益はなるべくとりたいでしょうから、当然の采配だと思いますし、そもそも博多のクラブで歌っていた山下をスカウトしてきたのはSMSの井岸さんというプロデューサーだったそうですから。だけど、できたばかりのSMS、スタッフも経験浅く、どうもイマイチ頼りないと、マネージャー、紙宣伝担当、電波宣伝担当、営業担当、音楽制作担当(木﨑さんと私)からなる「山下プロジェクト」は反旗を翻し、たぶんデビューまで半年を切っていた頃だと思いますが、レコード会社をコロムビアに変更したのです。
なかなかの大技ですが、ちょうどその頃、TBSから渡辺プロの制作部長に就任した砂田実さんに話すと解ってくれ、動いてくれたとのことでした。なぜコロムビアだったかは判りませんし、他のレコード会社も全く知らなかった私ですが、コロムビアのみなさんとの会議は活気に溢れていて、たしかにSMSよりよっぽど雰囲気がいい、とはその時感じたことです。
まるで音楽業界学校、山下久美子の現場
前置きが長くなりました。アルバムの話をしないと。ともかく山下久美子の現場が、私にとっては、音楽制作に限らず、“音楽業界学校” みたいなものでした。そして山下本人も “新入生”、作詞の康珍化(かんちんふぁ)さん、作曲の亀井登志夫さんもほぼ “新入生”。木﨑さんという先生の下、一年生が4人、レコード制作の実習授業を受けていたようなものです。
ちょっと遅れて私が参加した時には、もう大半の歌詞とメロディはできていました。歌詞は、「失恋などの悲しみを健気に乗り越えていく女性の、どこか異国の小さな街での物語」といった感じ。阿久悠さんの「ジョニィへの伝言」や「五番街のマリーへ」のような世界。メロディはブルーステイストでマイナー調のものが多かった。彼女が持つ雰囲気に合うとは思いましたが、木﨑さんは「本人のイメージに寄り添いすぎてしまった」と感じ、「もっとギャップがないと面白くない」と、ニール・セダカの「Crying My Heart Out for You」という曲をイメージしながら、ポップよりの曲を亀井君に依頼します。そしてできたのが「バスルームから愛をこめて」(※3)。
レコーディングの不思議さ、難しさ、面白さを感じたできごと
ヴォーカル録りがたいへんでした。博多でライブステージをこなしていた彼女ですから、それなりに歌は巧かったのですが、いざ録音してみると、なんかこうペラペラしていると言うか、説得力がないんですね。口先だけで “上手に” 歌うクセがついていたんだと思います。ヴォーカル用マイクを通してスタジオで聴くと、そういうのがバレてしまうんだなと妙な感心をしたりしましたが、私にはどうすればいいか判らない。
彼女も悩んではトライを重ねますが、うまくいかず落ち込んでゆく。そこで木﨑さんが提案したのが「情感を込めるとか一切考えないで、童謡みたいにまっすぐ歌ってみて」という方法。彼女は些かプライドを傷つけられたかもしれませんが、開き直ってそうしてみたら、これで身体の使い方が変わったというか、一皮むけて、それ以降格段によくなったのです。レコーディングというものの不思議さ、難しさ、面白さを感じたできごとでした。
ただ、このアルバムでの歌唱はこれ以降とかなり違っていると思います。2nd アルバム『DANCIN' IN THE KITCHEN』で久美子は彼女の歌唱スタイルをほぼ確立するのですが、この1stでは、自分ができるベストな歌唱を手探りしながら、一言一言ていねいに歌っているのが伝わってきます。
元祖「胸キュン」はどっち?
LPの「帯」になんかキャッチフレーズを考えて、と言われ、私が考えたのが「胸のここんとこがキュウンとなるような歌を唄いたいのよね…」という文言でした。やがて彼女は、それを略して「胸キュン娘」と呼ばれたりもするのですが、1983年にYMOが「君に、胸キュン。」をヒットさせてからは、彼らが生んだ新語ってことになっていきましたね。私自身は「胸キュン」という単語は思いつきませんでしたが、それとなくあのキャッチフレーズが源流となっているような気もしないではないです。
編集部注:本文にあります「木﨑賢治さん」「原盤権」「バスルームから愛をこめて」については、
■ 音楽プロデューサー木﨑賢治との出会い「バスルームから愛をこめて」秘話
■ 歴史の if を考える ― 音楽業界が自ら「貸レコード」に取り組んでいたら? ③』
■ 山下久美子デビュー!シングル「バスルームから愛をこめて」ができるまで
…に詳しく紹介されています。こちらも是非ご覧ください
2020.06.13