【歴史の if を考える — 渡辺プロの潮目に大きな影響を及ぼしたものは?】からの続き「ジャニーズ王国」を築き上げたジャニー喜多川さんが亡くなって、その人物と功績を偲ぶ話題で連日マスコミが賑わう中でこれを書いていますが、私が改めて感心するのは、よくこれだけ長い間途切れることもなく、しかもワンパターンで、男子限定で、アイドルを作り続けてこれたなー、そしてそれに心酔する(主に)女性たちがよくあれだけいるなーということですね。
“ジャニーズ” や “フォーリーブス" の時代から、“SMAP”、“嵐”、“キンプリ” に至るまで、彼女たちの気持ちってたぶん同じですよね。これだけ世の中が変化しているのに、相変わらずこんな王道がどーんとあって、でも他のプロダクションにはどうにも太刀打ちできないという不思議。もしこれから「ジャニーズ王国」が徐々に衰退していったとしたら、それこそジャニーさんが持っていた強力なカリスマの証となるでしょう。
さて、ジャニーさんのような長寿には恵まれず、59歳で1987年に亡くなった渡辺晋さんが率いた渡辺プロダクションは、今の「ジャニーズ王国」も敵わないような「ナベプロ帝国」として、60~70年代のエンタテインメント界を支配していました。
「もしも普さんがあと20年元気で采配を振るっていたら」という “if” にももちろん興味はありますが、今考えているのは、「もしも “キャンディーズ” があの時解散していなかったら」という “if” です。そして私は、奇しくも、キャンディーズ解散の1978年に渡辺プロに入社したのです。
渡辺プロの売上的な最盛期は70年代後半、中でも78年度が最高で、売上が約58億円、申告所得が約10億円だったそうです。先輩社員たちは、オイルショックの影響などどこ吹く風といった右肩上がりの会社業績を背に、グァムへ社員旅行とか、タクシーや交際経費がほぼノーチェックの使い放題というようなバブル待遇を享受していたようで、そこまでは私自身は味わってないのですが、私が入社した頃の社内の様子を少しお伝えしましょうか。
前回お話ししたように、有楽町の「松井ビル」というさほど広くはありませんが10階建てのビルに、渡辺プロのオフィスはあったのですが、最上階の10階には社員食堂がありました。11:00から19:00まで…ってことは昼と夜の2食、専任のコックさんが作ってくれるいろんなメニューを好きなだけ食べてよく、お金は給料から月1,200円ほど天引きされるだけ。さらに外部の人も社員といっしょに行けばタダで食べることができました。まさに “太っ腹” でした。
また国立に寮があり、これは基本的に新人タレントさんのためのものだったのですが、私のような地方から出てきた社員は東京でアパートを探すまで居ていいと言われ、1ヶ月ほど暮らしましたが、部屋代・光熱費はもちろん不要ですし、ここもまた朝・夜ごはんがついていて、飲み物も、ビールだって勝手に飲んでいい。クリーニングは決められた曜日に出しておけば数日後に戻ってきて、これもタダ。なのでこの寮に住んで会社に通えば、食住にはほとんどお金がかからないわけです。
マジメな私はさっさとアパートを探して1ヶ月で出ていったのですが、中にはズルズルと何年も居座っている社員も何人かいました。そりゃそうなりますよね。それでも別にお咎めなどなかったようだし。
国立はけっこう遠いので仕事が夜中に及んだ時、タクシー代をどうすりゃいいのかと思ったら、先輩から「東京無線」なら会社の名刺を出せばツケでいいと言われ、さすがにそんなことがあり得るのか?と半信半疑でしたが、ちゃんと OK でした。
問題は(というほどのことじゃないけど)、私にとっての最初の会社がこれだったので、会社とはこういうものなんだ、という “刷り込み” が入っちゃったこと。
後に私が EPICソニーに転職した時、天下のソニーともあろう会社に社員食堂がないなんて、と逆にちょっと驚いたくらいです(CBSソニーの市ヶ谷 “黒ビル” にはありましたが、もちろん有料)。
実はタダ同然の社員食堂なんて、他には平凡出版(現マガジンハウス)くらいしかなかったことは、その後に認識したことです。
他にも、渡辺プロでは、社長(渡辺晋さん)と副社長(渡辺美佐さん)それぞれに、運転手付きの黒塗りのベンツがあって、これも、社長とはそういうものなんだと思っていたのですが、EPICに入ってから、ある日、土屋昌巳さんが下北沢で芝居に出演しているのを、社長(井上良勝さん)以下数人と観にいくのに、社長の車で行こうということになりまして、(ベンツをイメージしながら)ついていったら、赤い(ちょっとくたびれた)ブルーバードで、しかも社長自らハンドルをにぎるではありませんか。口には出しませんでしたがまたもや内心ビックリ、やはり渡辺プロは特別だったんだと、改めて気づかされました。
さて、そんな数々の “大盤振る舞い” は、やがて幻のように消えていきます。
名刺でタクシーに乗れるのはすぐになくなったし、タクシー利用や会議費・交際費もだんだんチェックが厳しくなり、82年にはオフィスも、花の有楽町から、ちょっと “陸の孤島” 感がある麻布台、ソ連(当時)大使館の向かいに引っ越してしまいました。そこにも社員食堂だけはありましたが。
あの、人気タレントを何組も抱えて、飛ぶ鳥を落とし、泣く子を黙らせてきた渡辺プロが、キャンディーズがいなくなったくらいでどうにかなるのか?ならないと思いますよね。ところが流れが変わる、“潮目” というものはやはりあるようです。
綺羅星のようだったタレントさんたちは、ほとんどが78年以前にピークを迎えていて、77年に「勝手にしやがれ」で日本レコード大賞の大賞を獲得した沢田研二はその後もしばらくヒットを飛ばし続けますが、他はいずれもなだらかな下り坂を辿ります。そして79年には森進一が独立、80年には布施明が渡米してしまいます。一方、それに替わる有望な新人は吉川晃司くらいで、あとニューミュージック系の山下久美子、大沢誉志幸… あたりしかいないという、ぶっちゃけ “ジリ貧” と言っていい状況にハマっていくのです。
そうそう、キャンディーズ解散の陰で起こっていた一社員の退社、実はそれが、渡辺プロの “潮目” に大きな影響をおよぼしたのでは、という話でしたね。
この一社員とはキャンディーズのマネージャーだった大里洋吉さんのことです。ご存知でしょうか。あの「株式会社アミューズ」創業者にして、現代表取締役会長。
大里さんはキャンディーズが解散を宣言した77年に渡辺プロを退社されたので、私とはちょうど入れ違い、間近にお会いしたことも話したこともないのですが、後楽園の「ファイナルカーニバル」を取り仕切ったのも彼。
キャンディーズの、人気絶頂時における突然の解散という“事件”にも、何かしら関わっておられるのではないかと思うのですが、77年のうちにアミューズを設立、翌年、キャンディーズ「ファイナルカーニバル」のわずか2ヶ月後の6月25日、“サザンオールスターズ”を世に送り出し、またたく間にスターダムに押し上げます。
そして、盛り下がっていく渡辺プロを尻目に、アミューズは着実に成長を続け、80年代半ばには逆転していたんじゃないかな。現在では、“Perfume”、“ONE OK ROCK”、“BABYMETAL” に星野源まで加わって、音楽業界におけるその存在感は他を圧倒し、なお当面は盤石ではないかと思えます。
もしも大里さんが渡辺プロに残っていたら? … サザンオールスターズは渡辺プロからデビューしただろうか? … それでも同じように成功できただろうか? … 渡辺プロは勢いを盛り返せただろうか? … 妄想は妄想のまま儚く終わるのみですが、ともかく、当時の渡辺プロにも匹敵するような巨大プロダクションを作り上げる力を持った男が去ってしまったことが、渡辺プロの “潮目” を変えた大きな要因のひとつなのじゃないか、なんて私は考えてしまうのです。
2019.07.19