あれは中学3年だったか。『アガサ 愛の失踪事件』(79年)という映画を、日曜洋画劇場か何かで観た。もちろん吹き替え版である。
小学校の図書館で『ABC 殺人事件』を読んで以来アガサ・クリスティーにハマり、もういっぱしのファンのつもりだった私。『クレイマー、クレイマー』のダスティン・ホフマンも出るし? と楽しみにテレビをつけた。
夫の不倫に端を発するクリスティー失踪事件を描いたストーリー。不倫は中学生にはわからなかったけど、20年代の英国描写が、まるでクリスティーの小説世界を地でいくようでうっとりした。探偵役のダスティン・ホフマンは、ユーモアを携えた佇まいが格好よく、恋をしそうだった。
忘れられないのは、ホフマンが、アガサ役で長身のバネッサ・レッドグレーブとダンスを踊るシーン。あまりの身長差が逆に切なく、ギクシャク感と恋愛未満の心の交流も感じられて、ぐっときてしまった―― その時ふと思い出したのが、ユーミンの「5cmの向う岸」である。
「5cmの向う岸」は、80年発表の9thアルバム『時のないホテル』のB面2曲目に収録された、身長差のある学生カップルの破局をセンシティブに綴った珠玉のナンバーだ。友達から彼氏の背の低さを冷やかされ、ディスコで初めてチークを踊った時、彼のおでこの上で鼻を何度もすする… という歌世界が、映画のシーンとオーバーラップした。
それからは曲を聴くたび、ホフマンとレッドグレーブの、困ったような真剣なような、ちょっと笑っちゃうような顔で踊るダンスを思い出すようになった。
だから、高校生になって松任谷由実の本『ルージュの伝言』(83年)を読み、「5cmの向う岸」は『アガサ 愛の失踪事件』のダンスシーンからインスパイアされたのよ、という文字を目にした時は震えがきた。
「こういうダンスってかっこいいなと思ったわけ」
―― とユーミンが語っているではないか! えー! 私の中でこのダンスシーンと「5cmの向う岸」が繋がってたのは正解だったの? すごくない? ドキドキが止まらなかった。
ユーミンは続けて言った。「映画の雰囲気がすごくイギリスっぽかったの。だから『時のないホテル』に入れなくてもいい曲なんだけど、入れちゃった。自分の中では統一取れてたから」
ユーミンファンには周知のことだけど、『時のないホテル』のジャケット撮影に使われているのは、ロンドンにある創業1837年の老舗、ブラウンズ・ホテルである。英国の歴史を感じさせる、古き良きホテル。アルバムは、そんなジャケットに象徴されるかのように、重厚かつダークなトーンで貫かれている。ユーミン自身、この時期は精神的にもしんどかったと語ってもいる。
でも、みっちりと作り込まれたサウンドに加え、恋愛の機微と外国映画のように劇的な歌世界が同居する素晴らしい内容で、この作品をフェイバリットに挙げるファンも多い。私もそのひとりだ。ちなみに、アルバムに先立つ80年春夏ツアーのタイトルは『BROWN’S HOTEL』。アルバムタイトルも当初は『BROWN’S HOTEL』にする予定があったそうである。
ユーミンはアルバムのライナーノーツで、クリスティーに触れている。
「大好きなアガサ・クリスティーの小説の舞台にもよくホテルが登場します。ホテルには出会いと別れ、喜びと悲しみが、壁一つ隔てて同居しています」と。
実は、クリスティーはブラウンズ・ホテルをこよなく愛したことで知られ、当ホテルを題材に『バートラム・ホテルにて』(65年)という長編も書いている。晩年のミス・マープルシリーズだが、冒頭では、ロビーに集う紳士淑女のおしゃべりの情景が活写されていて、英国好きの私としては読むだけで幸せな気持ちにさせられるのだ。
私が初めて英国を訪れたのは22歳で、その時の野望の一つは「憧れのブラウンズ・ホテルでアフタヌーン・ティーをすること」だった。年末、人々でごった返すロンドンで、地図を片手にやっと到着したブラウンズ・ホテルは、こじんまりした奥ゆかしさを感じさせる、格調高い建物だった―― 扉を押して入ると、案外狭かったのを思い出す。残念ながら満員だと断られてしまい、別の老舗ホテルに行ったのだけど、英国式のお茶には心底感激した。
私もクリスティーの小説や『時のないホテル』の中の登場人物になれたような気がしたのだった。
次にロンドンに行ったら、今度こそブラウンズ・ホテルでゆっくりお茶をしようと思う。
ユーミンを聴きながら。クリスティーを読みながら。
2018.09.30
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