中森明菜を語ることはこの国の80年代を語ることだ。 1982年5月1日に『スローモーション』で鮮烈にデビューし、7月28日『少女A』、11月10日『セカンド・ラブ』と、中森明菜はあっというまにスターダムへと駆け上がった。 そのまますべての楽曲がシングル1位を獲得する以外ありえない状態が続くのだが、とりわけ1985年と1986年は彼女のキャリアの中でも頂点だった。 『ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕』と『DESIRE -情熱-』で女性ソロ歌手として史上初の2年連続日本レコード大賞受賞を果たしたのだ。 『ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕』とはポルトガル語で「私の愛」「私の恋人」という意味。康珍化が手がけた歌詞の舞台はブラジル・リオのカーニバル、曲はサンバのリズムに乗せられている。 作曲・編曲したのは、ラテン・ピアニストである松岡直也。70年代終わりから、日本のフュージョン・シーンで圧倒的な人気を誇っていた彼だったが、日本レコード大賞授賞式で中森明菜の隣に立つ姿に、ピアニストとしての彼の大ファンだった僕は、「好きな人が好きなフュージョン」がいわゆる「歌謡曲」というお茶の間にとってメジャーな舞台に出てきたことを喜んだ。松岡直也に関しては、今後もこの『リマインダー』で何度か採り上げていきたいと思う。 さて、そんな1985年を代表する一曲である『ミ・アモーレ』には、もうひとつまったく同じメロディの歌があったことは、今となってはほとんど忘れられている。 その歌は、『赤い鳥逃げた』。 『ミ・アモーレ』はもともと、松岡直也が自身のバンドでレコーディングする予定だったインストゥルメンタル楽曲で、サルサのリズムで編曲されていた。 それにまず康珍化が歌詞をつけたのが『赤い鳥逃げた』だったのだが、シングルとしては歌詞も地味、アレンジも地味ということでお蔵入りしそうになっていたのを、サルサのリズムから賑やかなサンバのリズムに変更し、歌詞もわかりやすいカーニバルの情景に書き換えた。この思い切った変更が1985年3月18日付オリコン初登場とともに1位を記録した『ミ・アモーレ』の大ヒットに繋がる。 ところが『赤い鳥逃げた』のほうも捨てがたい楽曲だということで、5月1日にあくまで「企画もの」として12インチシングルの形でリリースされるのだが、なんと5月13日付オリコンチャートでこちらも1位を獲得してしまった。 TBS『ザ・ベストテン』でも6月6日に初登場、最高順位6位、4週間に渡ってランクインし続け、『ミ・アモーレ』と同じ曲の歌詞違いがベストテン内に2曲ある、という珍事が発生した。 だが中森明菜サイドは『赤い鳥逃げた』はあくまで「企画ものレコード」であるという姿勢を崩さず、一度も番組内で歌われなかったので、オリコン1位なのに、レコードを買った人以外はほとんどだれも知らない歌となったのだ。 『赤い鳥逃げた』、今では知る人もカラオケで歌える人も少ないと思うので、テレビで歌われた貴重な映像をここに紹介しておこう。 そんな、やることなすこと全てが注目され、支持された中森明菜は、80年代の象徴だった。 89年12月29日、東証の大納会。日経平均が史上最高値の3万8915円を記録した、それはこの国が史上最も豊かな一瞬で、80年代の総決算としての数字は、日本が頂点を極めた証拠だった。 だが、その2日後。89年12月31日、紅白歌合戦の裏の午後10時。中森明菜がある記者会見をする。僕は、その記者会見の重苦しい時間こそ、この国が華やかな80年代に終止符を打ち、頂点から下り坂へ向かった瞬間だったのではないかとあとから思ったものだが、その話はまたいずれあらためて。 中森明菜を語ることはすなわちこの国の80年代を語ることだからだ。
2017.04.09
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