1979年秋、晴れて音楽制作担当となった私ですが、音楽制作と言っても、渡辺プロ所属タレントの、という但書がつきます。
「見習い」として、布施明さんとか梓みちよさんのレコーディングに参加しつつ、やはり歌謡曲ではなく、ロックやポップミュージックをやりたいと思いましたが、芸能界を牛耳っていた渡辺プロで、そんなアーティストができるのでしょうか。そもそも「タレント」という言葉のほうが幅を効かせていた会社です。
しかし時代は動いていました。ちょうどそのころ契約した新人には、桑江知子、大上留利子、クラウディ・スカイ(大澤誉志幸君がいたバンド)、チャクラ(小川美潮さんがいたバンド)、そして山下久美子と、いわゆるニューミュージック系がけっこういたのです。特に、大分出身で博多のライブハウスで歌っているところをスカウトされたという山下久美子には、何かオーラを感じたと言いますか、ぜひ関わりたいと思いました。
既に久美子については木﨑賢治という先輩ディレクターがデビューのための準備を進めていました。私は自ら手を挙げて、ちゃっかり木﨑さんのアシスタントにしてもらいました。
木﨑賢治という人は沢田研二や吉川晃司の大ヒット曲をいくつも制作し、渡辺を離れた後も槇原敬之、トライセラトップス、バンプ・オブ・チキンらを手がけ、今なお引く手あまたの大音楽プロデューサーなんですが、人としてもとても魅力的で、当時からみんなに慕われていました。
彼はたとえば時間を守ることが苦手だったのですが、それは、次の約束があっても、今会っている人と夢中で話し込んでしまうのが原因でした。私が時間を気にして、「そろそろ次が…」とか横から言うと、うなずいてはくれるのですが、話はなかなか終わりません。そして日にいくつかアポがあると、後ろのものほどどんどん遅くなっていってしまうのです。
普通嫌われますよね。でも木﨑さんが、ほんとに申し訳ない! という態度で現れると、相手も怒る気がしなくなってしまうようでした。
当時、一口坂スタジオの1スタのディレクターデスクの引き出しを開けるとその底に、「木﨑! オレは1時間待った」というような落書きがあり、そこから矢印があって「僕は2時間」→「3時間」→「俺はまだ待っている」なんて次々と違う筆跡で書いてありました。
それだけ目の前のことに一所懸命になってしまうのですね。いい音楽を作る、ヒット曲を作る、ということには実に真剣でした。詞曲にも決して妥協しないし、アレンジにも必ず納得がいくまで注文をつけます。
アルバム『バスルームから愛をこめて』は鈴木茂さんと松任谷正隆さんに5曲ずつ、アレンジを依頼しました。レコーディングの初日は茂さんでした。例によって木﨑さんが遅刻して現れません。茂さんはテキパキとミュージシャンに指示を出し、リハーサルも2回して、すっかり準備も整いました。
でもまだ木﨑さんが来ません。
私は焦り、これ以上お待たせするわけにいかないと思い、「録音しますか?」と尋ねました。すると、「木﨑さんまだなんでしょ? 彼が来たら絶対(アレンジを)変えられるんで、まだいいよ」と落ち着いたものです。木﨑さんの不思議な力を感じた瞬間でした。
時は戻りますが、私が参加した時にはもうアルバム用の曲が半分くらいできていました。ほとんどは、木﨑さんが抜擢した作詞の康珍化(かんちんふぁ)君と作曲の亀井登志夫さんが書いていました。共に早稲田大学を出たばかりの新人でした。「傷ついたけれど健気に生きていく」的な詞の世界は久美子に似合っていましたが、マイナー調でジャジィな感じの曲が多く、明るい曲も欲しいね、ということで「バスルームから愛をこめて」が作られることになります。
ここではそんなマイナー調の1曲、「酒とバラ」を紹介します。
※2017年1月28日に掲載された記事をアップデート
2018.06.24
YouTube / tomorobin
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