4月4日

潮目が変わった1978年!キャンディーズの解散が渡辺プロに大きな影響を及ぼした?

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キャンディーズの「ファイナルカーニバル」が後楽園球場で開催された日
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歴史から学ぶとは “if” を考えること


歴史に “if” はありませんが、それを想像するのは楽しいものです。そもそも全ての人が、昼飯を蕎麦と定食のどちらにするかとか、どの映画を観るかなどの小さなことから、就職先、結婚相手というような重要なことまで、生まれてから死ぬまで、常に、何らかの選択をしないではいられません。そして結局、それらが積もり積もって重なり合って、歴史が動いていくわけです。「歴史から学ぶ」とはすなわち「“if” を考える」ことだと言ってもよいのではないでしょうか?

新入社員研修の一環で観たキャンディーズ解散コンサート


1978年4月1日、私は渡辺プロダクションに、大学新卒で入社しました。積極的に音楽業界に、ましてや芸能界に進みたかったわけではなく、大学の就職課の掲示板にあった渡辺プロの求人情報に「勤務時間 11:00~20:00」とあり、ぐーたら生活を送っていた私には喜ばしかったのと、キャンディーズのランちゃんが好きだったので、話の種にと、ついでに受けてみたら、豈図らんや、出版社など他の就職志望先からは軒並み断られ、結果ここしか残らなかったのです。

とは言え、渡辺プロが入りやすかったわけではありませんよ。志望者250人中採用は7人だけでしたから。面接が3回もあって、2回目の直前に、NHKが落ちたことが判り、あとが無くなったので、そこからは真剣に面接官に対峙しました。

それでなんとかすべりこめたものの、やはり芸能界の仕事などやっていけるのだろうかという不安でいっぱい。そして、ランちゃんに会えるかもという唯一の小さな希望も、キャンディーズの解散により儚く消え去り、同年4月4日のファイナルカーニバルを、私は新入社員の研修の一環として、後楽園球場の上の方の席から、複雑な思いで見守っていたのでした。
※『伝説のファイナルカーニバル、キャンディーズ解散と私の社会人デビュー!』参照

日本のエンタテインメントを牛耳っていた渡辺プロダクション


渡辺プロダクションと言っても、若い人は、「お笑い芸人の大手事務所でしょ」、なんて思っているかもしれませんね。昔の渡辺プロは「ナベプロ帝国」なんて呼ばれるくらい強大な芸能プロダクションでした。

あ、世間では渡辺プロダクションのことを、よく “ナベプロ” って言いますが、中の人はそう言われるのがあまり好きじゃないみたいで、自分たちでは使いません。なので私も “渡辺プロ” でいきます。

設立は1959年。クレイジー・キャッツに始まり、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかり、いしだあゆみ、加山雄三、タイガースらのマネージメント…「日劇ウエスタンカーニバル」の企画制作、「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」などの音楽バラエティ番組制作、「無責任シリーズ」「若大将シリーズ」などの映画製作…… と、60年代から70年代にかけて、まさに日本のエンタテインメントを牛耳っていました。

売れっ子多数在籍! 沢田研二、森進一、布施明、ザ・ドリフターズ…


私が入社した時点でも、沢田研二、森進一、布施明、天地真理、小柳ルミ子、太田裕美、アグネス・チャン、アン・ルイス、ザ・ドリフターズ、もちろんキャンディーズ… らの売れっ子 “タレント” たちを多数抱え、常にオリコン・シングルチャートのトップ10に複数作品を送り込んでいました。

長年、プロダクションとしても音楽出版社としても売上は当たり前のように業界1位。オフィスは有楽町の「松井ビル」。JRと5本の地下鉄が通り、日比谷駅、銀座駅、有楽町駅のいずれからも至近の超便利な場所でした。

78年9月には、「SMS(Sounds Marketing System)」という新しいレコード会社を立ち上げ、同時期にスタートした EPICソニーとのライバル意識をむき出しにするなど、その勢いはまだまだ衰えを知らないように見えました。しかし、実はもう帝国の足元は少しずつ崩れ始めていたのです。



何が起こった? 渡辺プロの潮目が変わった1978年


思うに、その “潮目” が変わったのは、どうも私が入社した1978年頃なのです。ただ当時は、事業の実績や社内の動きで、感覚的に察するところはあっても、中にいる人間だけに、よく分からなかったですが。

やはり、ひとつの象徴的なできごとは、キャンディーズの解散でしょう。後楽園球場にそれまでの歌謡史上最大の5万5千人を集め、打ち上げた最後の花火の華々しさはもちろんですが、そこに至るまでのファン(全キャン連=全国キャンディーズ連盟)の盛り上がり、それによってラストシングル「微笑がえし」が初のヒットチャート1位になるなど、ちょっとできすぎなくらいの解散劇でした。



そして、もうひとつの象徴が、その陰で起こっていた一社員の退社。これは裏方の話ですから、世の中的には誰も注目していなかったできごとですが、実はこれこそが、渡辺プロの “潮目” に大きな影響をおよぼしたのではないか、と私は思うのです。

その理由と、その社員の正体は『歴史の if を考える ― もしもこの人が渡辺プロを辞めていなかったら!』に。

…つづく。


※2019年7月6日、2020年4月4日に掲載された記事をアップデート

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2023.04.04
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カタリベ
1954年生まれ
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